聖人カレンダー
1月の聖人
1日 神の母聖マリア
聖母マリアは、神からのお告げによってイエス・キリストを懐胎した。
5世紀に、コンスタンチノープルの司教ネストリウスが「キリストは、神性と人性という二つの異なる本質を持っている。そして聖マリアは人間キリストの母<クリストトコス>であるが、神の母<テオトコス>であるとはいえない」と唱え、教会を混乱させた。その解決のために、431年、エフェソ(現在のトルコ)公会議が開かれ、「キリストは、真の神、真の人間であり、両性は一致している」ことを再確認した。また「聖母マリアは、キリストの人性と神性における母であるので、神の母<テオトコス>と呼ばれる」ということを決定した。
この日はクリスマス(12月25日)から数えて8日目であり、昔からみどり子イエスと聖母マリアの関係を祝う習慣があった。
「神の母」という祭日は、エフェソ公会議から1500年祭にあたる1931年に、教皇ピオ11世によって制定された。
2日 聖バジリオ司教教会博士/聖グレゴリオ(ナジアンズ)司教教会博士
330年ごろ-379年/329年-390年
2人とも、小アジア、カパドキアのカイサリア近郊に生まれた。バジリオは、カイサリア、コンスタンティノープルで教育を受け、他方、グレゴリオもカイサリア、アレキサンドリアで学んだ。その後、2人は当時学問の最高峰といわれたアテネ大学に学び、生涯の友となって互いに研鑽の道を歩んだ。
バジリオは、卒業後帰郷し、将来を有望視される教授となったが、徳の高い姉マクリーナの影響のもとに修道生活を送る決心をした。グレゴリオも、初め弁論家となったが、修道生活を志した。そして彼らは、ともに隠遁生活に入った。
バジリオは、各地に修道士を訪ねた後、カイサリアの近くに修道院を建てた。隠遁生活では兄弟愛を行うことが少ないことを悟った彼は、共同体生活の形態に変え、会則を作った。バジリオの修道生活の形態は広がってゆき、「西方の修道生活の父」と呼ばれるベネディクトに対して、「東方の修道生活の父」と呼ばれた。当時はアリウス派の異端が広がっていたので、バジリオは正当信仰の擁護を主張して、闘った。また370年にはカイサリアの司教に任じられ、教区内に貧しい人びとの施設、病院などを建てて貢献した。
グレゴリオは、381年コンスタンティノープルの司教に任じられたが、すぐに辞職し、説教活動に力を注いだ。彼は雄弁家であり、文学者であった。特に三位一体論は優れたものであり、西方に影響を与えた。
2人は、説教や神学の本を数多く著わし、教会博士と称された。
また、バジリオの弟である聖グレゴリオ(ニッサ)も聖人であり、彼ら3人はカパドキア3大教父と呼ばれている。
3日 聖ジュヌヴィェーヴ
422年-500/512年
ジュヌヴィェーヴは、フランスのナンテールに生まれた。429年に司教ジェルマンに出会い改宗し、15歳のとき修道生活に入った。451年フン族のアッチラがパリに侵入した際、彼女は恐れおののく市民を励まし、勇気を奮い起こさせ、撃退させた。ジュヌヴィェーヴは、つねに神に信頼し続け、彼女の信仰に根ざした勇気と希望は人びとを導いた。
彼女は死後、パリだけでなく全フランスで敬われた。フランク王国のクロヴィスも、改宗したときに彼女を聖女として尊敬し、パリの聖堂に彼女の遺体を納めたといわれている。
ジュヌヴィェーヴは、絵画や彫刻などに、燃えるろうそく・鍵・パンを持ち、悪魔を解き放つ者として、表わされている。パリの守護の聖人として人びとから親しまれている。
3日 イエスのみ名
「イエス」という名は、ヘブライ語の一般的な名前である「ヨシュア」にあたり、ギリシャ語化したものは「イエスス」である。ヘブライ人にとって、名前は重要な意味を持ち、特にその人が果たすよう託された使命と結びついていた。マタイ福音書には、ヨセフの夢に天使が現れ、「イエス」と名付けるように告げられたことが記されており(マタイ 1.21)、「イエス」は「主は救い」という意味である。
「イエスのみ名」に対する信心は初代教会の時代からあった。中世にクレルヴォーの聖ベルナルドは、著書『雅歌について』のなかで、「流れるその香油のようにあなたの名はかぐわしい(雅歌1.3)」という箇所をイエスのみ名と関連づけて、美しく説明した。こうして彼は、み名に対する信心の基礎を作り、多くの人びとに影響を与えた。
アシジの聖フランシスコは、イエスのみ名に対する崇敬に熱心で、フランシスコ会においてさかんになった。シエナのベルナルディノは、苦しみに打ち勝つためにイエスのみ名を呼んで祈り、人びとにも薦め、病気がいやされるなどの奇跡が起こった。この信心はフランシスコ会やドミニコ会によってさかんになった。「み名の連願」はシエナのベルナルディノとフランシスコ会原始会則派の総長代理であった、カペストラノのヨハネによって作られたと言われている。
1530年、クレメンス7世はフランシスコ会に、教会の祈りにおいて、「イエスのみ名の典礼」を唱える許可を与えた。2002年、ヨハネ・パウロ2世は任意の記念日として典礼暦に加えた。
4日 聖エリザベス・アン・シートン
1774年-1820年
エリザベスは、ニューヨーク市のプロテスタントの医者の家庭で生まれ育った。19歳のときに結婚し、5人の子どもに恵まれたエリザベスは、父の影響もあって慈善事業に力を尽くし、1797年に貧しい寡婦たちを援助するための会を創設した。
1803年に夫に先立たれ、カトリックの家族の援助を受けたことから、2年後にカトリックに改宗した。しかし改宗に反対する周囲の無理解から、ある司祭の招きでボールティモアに移り、学校経営に従事した。これはアメリカにおけるカトリック組織の学校経営の始まりとなった。
1809年に聖ヨセフ修道女会を設立し、その後メリーランド州エミツバーグに貧しい子どもたちのための学校を建てた。1812年に、この共同体は「聖ヨセフ愛徳修道女会」という名称で正式な修道会として承認され、アメリカ人によって初めて設立されたカトリック修道女会となった。エリザベスは、初代総長として会員を導き、会は急速に発展していった。
現在この修道会は、医療・教育をはじめ多くの社会活動に貢献している。
エリザベスは、アメリカ合衆国の福祉事業、教育活動の先駆者となった。アメリカ人として初めて聖人の位にあげられた人である。
5日 聖シメオン(柱の行者)
390年ごろ-459年
シメオンは、キリキア州に近い、羊飼いの家に生まれた。ある日、福音書に記されているイエスの山上の説教を読み、感銘を受け、人間の真の幸福とは何かについて悟った。修道者として生涯を送りたいと決心し、アンティオキアの近くにある修道院の門をたたいた。彼はみなから愛されたが、より厳しい生活を望み、規則の厳格な修道院に移った。423年ごろから、一層厳格な修行をするために柱上での生活を始めた。柱の高さは次第に高くされ、最後は約20メートルに達したといわれる。シメオンの行いは人びとの好奇心だけでなく、信仰心を呼び起こし、彼のところには多くの人が訪れた。彼は日に2度説教をし、多くの人びとに影響を与えた。弟子の中には、聖人となったダニエルもいた。
シメオンの死後、柱の周囲に修道院と教会が建設された。
6日 聖ラファエラ・マリア・ポラス修道女
1850年-1925年
ラファエラは、スペイン、コルドバの裕福で信仰深い家庭に生まれた。慈善家として仰がれていた父親は、1854年のコレラ流行の際にも看護のために奔走し、自らも感染して亡くなった。父の影響を受けたラファエラも信仰深く、生涯をイエス・キリストにささげたいと決心し、1865年に私的誓願を立てた。19歳で母を失ってからも、姉ドロレスとともに、村の貧しい人びとの世話、子どもたちの宗教教育のために働いた。
23歳のときに、姉とともに修道生活に入った。1874年にアントニオ・オルティス・ウルエラ司祭と出会い、霊的に導かれ、修道会の創立というビジョンをもち始めた。アントニオの突然の死に見舞われたが、ホセ・ホアキン・コタリニヤ司祭の助けによって、1887年にマドリードに「聖心侍女修道会」を創立した。そのときからラファエラは、その名を「イエスのみ心のマリア」という修道名に改め、謙遜にイエスの愛のために生涯をささげた。修道会は世界中に広がり、学校、黙想の家、その他の事業をもって社会のために貢献している。
同会は1934年に来日し、東京の五反田にある清泉女子大学や鎌倉の小、中、高校などを始めとして、キリストの愛による教育を行っている。
7日 聖ライムンド(ペニャフォル)司祭
1175年ごろ-1275年
ライムンドは、スペインのカタロニア州ペニャフォルで生まれた。バルセロナで勉学を始め、イタリアのボローニャ大学で民法と教会法を学んだ。1220年に卒業し、同大学で教鞭を取ったが、2年後にドミニコ会に入会した。祈りと修行に励み、修練期を終えてからは、説教と宣教活動を熱心に行った。
当時、スペインはイスラムの脅威にさらされており、ライムンドはキリスト教の擁護とイスラムの人びとの改宗に努めた。1230年に、教皇グリゴリオ9世はライムンドをローマに招き、教皇付司祭に任命し、教会法の権威者である彼に「グラティアーヌス教令集」を編纂させた。以後、それは教会法の最初の完成本として高く評価された。その後ライムンドはスペインに戻り、1238年にドミニコ会の総長に選ばれ、会の刷新に貢献し、会憲を整えた。2年後、総長職を退いてからは、ユダヤ教徒、イスラムへの宣教に身をささげた。
ライムンドは教会法、教会学者の守護の聖人とされている。
8日 聖セヴェリノ(ノリクム)
?-482年
セヴェリノは、ローマで生まれた。あるとき神の導きを感じて、全財産を捨てエジプトの砂漠へ行き独居生活を始めた。その後、まだキリスト教を知らない人びとのために宣教したいという望みから、ノリクム(オーストリア)へ行き宣教師となった。ドナウ川の岸に修道院を建て、そこで活動しているうちに貧しい人びとが彼のもとに助けを求めて来るようになり、次第にオーストリア地域にキリスト教が広まった。
またセヴェリノは、相次ぐ異民族の侵入によって荒廃したローマの市民のために、教会再建や福祉事業を行うなど、政治的、宗教的に貢献した。彼の功績は、宗教・民族を越えて評価された。
彼はノリクム(オーストリア)の使徒と呼ばれ、またワイン製造者の守護の聖人とされている。
9日 聖ハドリアーヌス(カンタベリー)
?-709年
ハドリアーヌスは、北アフリカに生まれ、ベネディクト会の修道士となった。彼はギリシャ語とラテン語の才能に富み、優れた聖書学者であると同時に、教会と修道院の改革にも力を尽くしていた。664年にカンタベリー大司教が死去した際、教皇から後任に任命されたが、それを辞退し、代わりにタルソス出身でローマに来ていたテオドロ(602-690 聖人)を推薦した。ハドリアーヌスはテオドロの生涯の協力者となり、668年にテオドロが司教に叙階されると、2人はともにイギリスに向かった。
ハドリアーヌスはカンタベリーの聖ペトロ・聖パウロ修道院長に任命され、付属学校の教育指導、神学、ギリシャ語、ラテン語などの教鞭を取り、テオドロとともに教区の発展に努めた。彼の学識と信仰の深さは、学生たちに影響を与えた。後のイギリスの大司教や修道院長の多くはここで教育を受けた。
後世の人びとは彼について「ハドリアーヌスは学生たちの頭の中に健全な知識を日々注いだ。聖人はみなを幸福にした」と評している。
10日 聖ウィルヘルモ大司教
?-1209年
ウィルヘルモは、フランスの由緒ある貴族の家に生まれた。幼少のころから、司祭である伯父から教育を受け、信仰深く育てられた。青年期にすべてを捨てて司祭となり、教区の司牧に力を尽くした。
その後、修道者の道を志すことを決意し、トラピスト修道会に入会した。彼の謙遜で信仰深い行いは共同体からも尊敬され、修道院長に選ばれた。ブルジュの大司教が亡くなったときには、その後任に選ばれた。司教になってからも、よりキリストに従った生き方をし、教区や聖職者を導いた。当時、フランスではアルビ派(カタリ派)の異端説が広まっていた。(この説によると、神には善と悪の神がおり、霊魂には善神が宿っているが、肉体には悪神が宿っている。だから自殺することで霊魂を解放することが善の行いであるというものであった。)ウィルヘルモはこのような異端説と闘い続け、正当な信仰に信徒たちを導いた。
11日 聖テオドシオ修道者
423年ごろ-529年
テオドシオは、カパドキア(現在のトルコ中東部)のマリッソスに生まれ、信仰深い両親のもとで育った。エルサレムへ巡礼したときにロンギノという徳高い修道者と出会い、彼の指導を受けた。その後、エルサレム近くの教会の主任司祭となり、彼の評判は広まった。多くの人びとが彼のもとに集まってきたため、テオドシオはユダの山にひきこもり、祈りと黙想の生活を始めた。彼を慕って多くの青年男女が集まり、ともに修道生活を始め、共同体は発展した。多くの国の修道士が集まったため、旅行者の宿舎、病院などを設立し、奉仕にあたった。493年に、テオドシオはパレスチナ地方の共住修道会全体の長に選ばれた。
当時、キリストの神性だけを主張する単性論の異説が広まり、東ローマ皇帝もこの異説を支持していた。テオドシオは正当信仰の擁護のために、各地を巡回して人びとに説教したため、皇帝から国外追放された。皇帝の死後修道院に戻ったが、病に伏して亡くなり、彼が修行した洞窟に葬られた。
彼は、パレスチナの修道生活の祖といわれている。
12日 聖マルグリット・ブルジョワ修道女
1620年-1700年
マルグリットは、フランス、シャンパーニュ地方トロア市の裕福な商人の家に生まれ、信仰深く育てられた。17歳のときに母を亡くしてからは、家事と幼い兄弟たちの世話をする一方、貧しい家庭の子どもたちに勉強を教えたりした。マルグリットは、指導司祭に導かれて1640年に私的誓願を立て、生涯をイエス・キリストにささげる生活を始めた。そして聖母マリアの生活を敬う修道会創立のビジョンを抱いた。家族とも離れて、3人の同志とともに共同生活をし、トロア市の子女の教育活動を始めた。1653年カナダに渡りフランスからの移民の子どもたちだけでなく、先住民族のイロクア人の娘たちも教育した。学校を次々に設立し、旅するマリアの生活に倣い、外部の人と隔たりを置くという囲いをもたない新しいタイプの修道会「コングレガシオン・ド・ノートルダム」のライフスタイルを確立した。1702年にローマから公式に認可された。
同会は、聖母マリアを、使徒職(福音を宣べ伝えるための仕事)に献身した女性の模範とし、教会と世界の必要にこたえて、教育活動をとおして宣教にあたり、現在に至っている。
1933年に来日し、福島市、調布市、北九州市などで、幼稚園、小、中、高等学校、短大をとおして教育活動に貢献している。
13日 聖ヒラリオ司教教会博士
315年ごろ-367年
ヒラリオは、フランスのポアティエの貴族の家に生まれた。哲学と修辞学を学んでいたが、あるとき聖書を読んだことから回心し、キリスト教徒となった。359年にポアティエの司教が亡くなると、後継者としてヒラリオが任命された。
当時は、アリウス派の異端が広まり、ローマ皇帝コンスタンチヌス2世の支持を得ていた。正当信仰の擁護を主張したヒラリオは、そのために小アジアに追放された。そこで東方の神学を学び、アリウス派の不合理を研究・分析し、明確にした。360年、フランスに戻ってからもアリウス派の異端と闘い、その生涯をささげた。ヒラリオは、説教や著書だけでなく、自らの生活をもって人びとを信仰に導いた。
ヒラリオはギリシャ神学を西方に取り入れ体系化した人として、後の神学の模範とされている。彼は、アリウス派の異端と闘ったアタナシウスと並び、「西方のアタナシウス」とも呼ばれている。
14日 聖ベロニカ修道女
1445年-1497年
ベロニカは、イタリア、ミラノの信仰深い家庭に生まれた。修道女になって生涯を神にささげたいと望み、聖アウグスチノ会に入った。しかし修道女になるには読み書きができなければならず、無学だったベロニカは日々の労働をしながら勉学に励んだ。努力の末、修道女になることができた彼女は、十字架上で死ぬまで父である神に従ったキリストに倣い、修道院の会則に徹底的に従った。院内の目だたない仕事を進んで引き受け、常に神に感謝しながら生涯をささげた。
15日 聖パウロ(テーベ)
?-342年ごろ
パウロは、エジプトのテーベで生まれた。彼の生涯については、聖ヒエロニモが『パウロ伝』に記している。彼はエジプトの文化を大切にし、ギリシャ語にも精通していた。ローマ皇帝デキウスのキリスト教迫害時代に砂漠に逃れ、洞穴で祈りの生活を送り、その評判は人びとに広まった。
聖アントニオ(修道生活の父と呼ばれる1月17日 参照)も、パウロが113歳のときに訪れ、ともに祈った。そのすぐ後に、パウロは息をひきとったとする伝承もある。
彼は、キリスト教の最初の隠修士として知られている。
16日 聖マルチェロ1世教皇
在位308年-309年
マルチェロは、ローマ皇帝ディオクレチアヌスによるキリスト教迫害下にあって、教皇の座が3年近く空位になった後、教皇として選ばれ、迫害による混乱を回復し信徒たちを力づけた。
特に教会の組織を整え、祈祷所を作ったりした。しかし時の皇帝マクセンチウスが介入し、祈祷所を馬小屋にして、マルチェロをそこで働くように強制した。その後、マルチェロは皇帝から追放され、その地で亡くなった。遺体は、ローマの聖プリスキラの墓地に葬られた。現在遺骨はローマの聖マルチェロ教会に安置されている。
17日 聖アントニオ修道院長
251年ごろ-356年
アントニオは、エジプトの裕福な地主の家に生まれ、信仰深く育てられた。18歳で両親に先立たれた後、キリストの生活に倣おうと、遺産を貧しい人びとに与え、砂漠に行き隠遁生活を始めた。祈りと黙想をし、そして手仕事によってわずかな日用の糧を得ていた。彼は、孤独と禁欲の苦行のなかにあって、度々襲ってくる誘惑を常に克服していった。また多くの隠遁者を訪ね、彼らの長所に倣おうと努めた。アントニオの評判は広まり、人びとが指導を求めて集ってきたので、隠遁者の集落ができた。これはまだ組織化されていなかったが、キリスト教修道生活の基盤となり、隠遁者の集落から次の段階の共同生活をする修道院となる時代へと移ってゆく。
アントニオは、アレキサンドリアの司教アタナシオと親交があり、アリウス派の異端に対して正統信仰を擁護した。アタナシオが著わした『聖アントニオ伝』(357年ころ)は、修道生活の理念を西方に伝えたものとして重要であり、アントニオは「修道生活の父」といわれている。
18日 聖マルガリタ(ハンガリー)
1242/43年-1270年
マルガリタは、ハンガリー国王ベラ4世の娘として生まれた。当時、ハンガリーは政情の危機に直面していたので、両親は幼いマルガリタをブタペストのドミニコ会の修道院に預けた。1254年に、彼女は修道女になることを望み、ボヘミア王からの結婚の申し出を始め、すべての縁談を断わって、神にささげることを誓った。
祈りと苦行に励み、謙遜な態度を保ち、貧しい人びとへの寛大な愛を行なった彼女は、人びとから慕われた。マルガリタが王女のころ、彼女のもとで働いていた女性は、「王女でありながら、わたしたちより謙遜な方であった」とほめたたえた。
19日 聖カヌート4世殉教者
1043年ごろ-1086年
カヌートは、デンマーク国王スウェーノ2世の息子として生まれ、幼いころから帝王としての教育を受けて育った。カヌートが王位を継承するはずであったが、彼の信仰深さを嫌った諸侯たちは、弟のハラルドを国王としたため、カヌートはスウェーデン国王ハルスタンのもとに行った。ハラルドが亡くなったのち、諸侯たちはカヌートを国王として迎え、彼の寛大な態度に心を打たれた。当時、デンマーク周辺はヴァイキングの脅威にさらされていたため、カヌート自身も軍をひきいて彼らと戦い、配下の者たちの海賊行為を禁じた。
彼は、国内の財政改革や、その他多くの改革を行った。またフランドルの王女と結婚したころからデンマークのキリスト教化に熱心に取り組み、修道院や聖堂を建てるなどした。彼自身は、ぜいたくを好まず質素な生活をしたが、1085年に、彼の政策に不満をもつ諸侯たちによる反乱が起こり、翌年彼は捕えられ、オーデセンの教会で殺された。
20日 聖セバスチアノ殉教者
3世紀末
セバスチアノは、フランスのナルボンの貴族の家に生まれた。若いころにキリスト信徒となったが、その時代はローマ皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害が最も激しいときであった。そのため、彼は自ら信徒であることを隠し、ローマの軍隊に入った。皇帝の目にとまり、近衛兵となり将来も有望視されていたが、野心は抱かず、皇帝への忠誠と神のために働くことだけに力を注いだ。
キリスト教徒への迫害が激しくなってくると、セバスチアノは信者仲間を励ますために訪問したり、援助を行った。しかし、ついにある者の密告によってセバスチアノがキリスト信者であることを知った皇帝は激怒し、弓で彼を射殺すよう命じた。セバスチアノはかろうじて一命を取りとめ、皇帝のキリスト教徒に対する残虐な迫害を公然と非難し、再び死刑に処せられ、殉教した。遺体が発見されると、アッピア街道そばに葬られ、のちに聖セバスチアノ教会が建てられた。
彼は、中世には矢をあびる青年として美術などに描かれ、兵士・弓術家の保護者とされている。
20日 聖ファビアノ教皇殉教者
?-250年(在位236年1月-250年1月20日)
聖ファビアノ教皇殉教者は、第20代ローマ教皇である。歴史家エウセビウスは『教会史』(29巻)のなかで、ファビアノが教皇に選ばれた次第について、次のように書いている。236年、教皇アンテルスが亡くなり、教皇選挙が始まった。ちょうどそのころ、ファビアノは何人かの同行者とともに出身の村からローマにやってきた。会議では何人かの教皇候補者の名前が挙がっていた。しかし、ローマの人びとがファビアノの頭上に鳩が飛んできたのを見たとき、枢機卿たちはイエスの洗礼のとき、神の霊が鳩のように降ってきたことを思い出した。彼らは喜びに満たされ、「これは聖霊の働きに違いない」と、満場一致でファビアノを教皇に選んだ。
ファビアノの在位中、最初の14年間は迫害の時代であった。エウセビウスは、『教会史』(Ⅵ、43)の中で「教皇ファビアノはローマの町を7つの地域に分け、助祭が司牧し、その助祭のもとに7人の副助祭がいるように定めた。また当時の殉教者たちがかけられた裁判の記録に努めた」と書いている。ファビアノは、235年サルディニアで死去した教皇ポンティアヌス(生没年不明、在位230-235年)の遺骸をローマに運び、サンカリストゥスのカタコンベ(地下墓地)に埋葬した。また245年、7人の司教を叙階し、ガリア地方(現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部)へ宣教師として派遣した。
マルクス・ユリウス・ピリップス (Marcus Julius Phillippus、204年ごろ-249年、在職244年-249年) が皇帝となると、キリスト教徒に対して、比較的寛容な政策をとり、迫害は一時的に収まった。このころ、ファビアノはローマを7つの地域に分割し、助祭がそれぞれを司牧し、彼のもとに7人の副助祭を任命し、彼らは特に貧しい人びとへの奉仕に従事した。教皇はデキウス帝の迫害時、250年1月20日に殉教したと言われている。
彼についての詳細な記録はあまり残っていないが、古代教会の歴史の中で、彼が果たした役割はとても大きい。カルタゴの司教キプリアヌスはファビアノを高く評価している。
21日 聖アグネスおとめ殉教者
3-4世紀初頭
アグネスは、ローマの名門の家に生まれた。当時は、キリスト教迫害時代であったため、多くの信徒たちが信仰を守り殉教してゆく姿を見て、彼女も富や名声よりも神に身をささげたいと願うようになった。
美しいアグネスには多くの縁談があったが、すべて断った。そのため、彼女がキリスト信者であることが分かると、すぐに訴えられた。そしてどんな拷問にあっても、決して信仰を捨てない彼女は、ついに死刑を言い渡された。彼女は「キリストはわたしの花婿です。最初に選んでくださったのはキリストですから、わたしはその方に従います」と言って亡くなった。
後に彼女は有名になり、キリスト教を国教としたローマ皇帝コンスタンティヌスは、自分の娘に彼女の墓の前で洗礼を受けさせたといわれる。その後、墓の上には聖アグネス聖堂が建てられた。
アグネスは、羊を抱いて描かれているが、ラテン語で「子羊」を意味する「アグヌス」と似ているためだといわれている。
22日 聖ビンセンチオ助祭殉教者
?-303/304年
ビンセンチオは、スペインのサラゴサで助祭に任命され、宣教に力を尽くしていた。当時、ローマ帝国最後のキリスト教迫害はスペイン地方にも及び、激しくなっていた。ついに総督ダシアノにより、ビンセンチオは司教とともに捕えられ、信仰を捨てるように強要された。司教は追放され、ビンセンチオは拷問にかけられた末、殉教した。
後に聖アウグスチヌスも、説教の中でビンセンチオを敬っている。彼の崇敬は、スペイン、北アフリカ、フランスにまで広がった。彼はポルトガルの保護の聖人であり、ぶどう栽培の守護の聖人とされている。
23日 聖イルデフォンスス(トレド)司教
607年ごろ-667年
イルデフォンススは、スペインのトレドの貴族の家に生まれた。両親からの反対にもかかわらず、彼はベネディクト会修道院に入り修行に励んだ。霊的にも知的にも深く、仲間からの信望を受け、後に修道院院長に選ばれた。657年にはトレドの大司教に任命され、教会のために貢献した。
イルデフォンススは、偉大なスペイン人についての伝記や教父の著作の要約などを著わした。
彼は、聖母マリアへの信心が厚いことでも知られており、司教座大聖堂で聖母マリアから祭服をいただいた夢を見たという話が絵画にも描かれている。
彼はスペインで尊敬され、親しまれている聖人である。
24日 聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士
1567年-1622年
フランシスコは、フランス、サヴォアの貴族の家に生まれた。パリ大学とパドバ大学に学んで、法学博士となり周囲からの期待も大きかったが、出世の道を望まず、司祭となることを選んだ。1593年に司祭に叙階され、ジュネーブ教区の司牧にあたった。当時は、宗教改革以来の混乱の中にあり、人びとを再び信仰に呼び戻すことに尽力した。その後、ジュネーブ司教補佐を経て1602年に司教となり、教区の刷新に努めた。フランシスコは、聖ヨハンナ・フランシスカ・ド・シャンタルを指導し、1610年に彼女と協力して「聖母訪問修女会」を創立した。
彼は、人びとに言葉と行ないをもって影響を与えるだけでなく、著作によっても人びとを導いた。『信心生活の入門』は、だれでも神の愛に生きられることをあかしし、各国語に翻訳されている。また神への愛を語った『神愛論』は、フランス文学の傑作の1つとされている。彼は、カトリック新聞記者とカトリック著書の保護者とされている。
25日 聖パウロの回心
37年ごろ
パウロは、タルソ(現在のトルコ南東)でベニヤミン族のイスラエル人として生まれた。本名をサウロといい、若いころは有名な律法学者ガマリエルの弟子となった。(使徒言行録 22参照)
彼は熱心なユダヤ教徒であり、それに反するキリスト教を徹底的に排除しようとした。聖ステファノの死刑にも賛同し、エルサレムの教会を荒し、キリスト教徒を迫害した。(使徒言行録7章 参照)。しかしキリスト信者たちを逮捕するためにシリアのダマスコへ向かう途上で、突然光を受け、「なぜ、わたしを迫害するのか」というキリストの声を聞き、地面に投げ出された。そのときにパウロは一時的に盲目となり、自らの闇と出会い、回心した。「主よどうすることをお望みですか」と尋ね、キリストに従い、その望みを完全に果たしていくということを悟った。そして自分が出会ったキリストの体験と神の愛を語るためにその宣教に生涯をささげた。
パウロの3回にわたる宣教旅行は有名である。彼は、キリスト教をユダヤ人以外の人びとに広めた使徒として、「異邦人の使徒」とも呼ばれ、聖ペトロと並び使徒である。彼が残した書簡は、新約聖書に14あり、キリストの愛と教えが、体験をもって語られている。
パウロの回心については、使徒言行録22.6-16、9.1-19、26.12-18を参照。また聖人カレンダー「使徒聖パウロ(6月29日)」参照。
26日 聖テモテ/聖テトス司教
1世紀
2人は聖パウロの弟子であり、協力者であった。
テモテは、リストラ(現在のトルコ)でギリシャ人の父とユダヤ人の母の間に生まれ、信仰深く育てられた。パウロの第2回宣教旅行に従い、マケドニアに行き、その地方の教会のために力を尽くした(1テサロニケ3.2、ローマ16.21 参照)。またパウロの第3回宣教旅行のときにもパウロを支え、フィリピ、コリント、エフェソで働いた(使徒言行録17.14、1テサロニケ3章)。その後、テモテはエフェソ教会の初代司教となって活躍し、ローマ皇帝ドミティアヌスのキリスト教迫害下に殉教したと伝えられる。
テトスは、アンチオキア(現在のシリア)から、パウロとバルナバとともに、エルサレムの公会議に出席した(ガラテヤ2.1-10 参照)。彼は、パウロからコリント教会に派遣され、当時分裂問題が起きていた教会の和解に努めた。彼は、温和な人柄で、パウロがテトスによってどれだけ慰められたかは、コリント教会への手紙で述べられている。その後、テトスはクレタ島の司教となり、ダルマチア(現在のユーゴスラビア)に派遣され、パウロの殉教後はクレタ島で最後まで宣教活動をしたといわれている。
2人ともパウロから個人的に手紙を受け取っており、その書簡のなかにはパウロの弟子に対する愛が表われている。
27日 聖アンジェラ・メリチおとめ
1474年-1540年
アンジェラは、北イタリアの信仰深い家庭に生まれた。幼いころから、祈りと黙想に熱心に励んだ。聖フランシスコの第3会に入り、普通の生活をしながら内面的には修道者のような生き方を続けた。彼女は、ブレシア市の子どもたちの信仰教育の低さを痛切に感じ、同志を集めて彼らを教育する会の計画を立てた。彼女の活動は多くの人びとに影響を与え、貴族や神学者の霊的支えともなった。
1535年に子女の信仰および道徳生活の教育を目的とする会を創立した。アンジェラは会の保護者として、ドイツのケルンで有名であった聖ウルスラを選び、その会を 「ウルスラ会」 とした。そのころまでの女子修道会は観想生活が主だったが、アンジェラが考えた会は、外に出るという革命的なものであり、女子教育のための最初の修道会となった。
彼女の死後、会はミラノ司教 カロロ・ボロメオ(11月4日 参照) によって正式に組織化され、アンジェラ会とウルスラ会に分かれた。聖ウルスラ修道会は1936年に来日し、仙台市、東京などで、学校教育や福祉活動などを行ない、社会に貢献している。
28日 聖トマス・アクィナス司祭教会博士
1226年-1274年
トマスは、北イタリア、ロンバルディアの貴族の家に生まれた。幼いころからベネディクト会のモンテ・カッシーノ修道院で教育を受けた。その後ナポリ大学で学び、司祭になることを決意し、設立されたばかりのドミニコ会に入ろうとした。両親や兄弟の猛反対にあい、城に閉じ込められたが、彼は初志を貫いてドミニコ会に入り、パリとドイツのケルンで学び、哲学、神学などを修めた。内気なトマスは、学生仲間から「だんまり屋のシシリー牛」と軽蔑されたが、教授の大聖アルベルト(11月15日参照)は、彼の奥深い才能を見抜き、その後2人は固い友情で結ばれた。果たしてトマスは、当時最も優れた学者となり、パリやイタリアの大学で教鞭を取った。
当時、ヨーロッパ世界には、ギリシャ哲学者アリストテレスの思想が入り、ある学者はキリスト教を捨て、ある学者はその思想をキリスト教に反するものとして否定する、という思想的混乱を巻き起こしていた。トマスは、アリストテレスの思想のある部分を取り入れ、キリスト教に合った哲学と神学の書を著わした。『神学大全』は、神の愛、神の内にすべての完全さがあることを表現した不朽の名著とされている。
トマスは、1274年にリヨン公会議に赴く途中、病に倒れ亡くなった。
彼は、学生・学校の保護者とされている。
29日 聖ギルダス
500年ごろ-570年ごろ
ギルダスは、イギリス諸島の、イングランド地方に生まれ、ウェールズで隠修士となった。その後アイルランドに行き、そこで学び、ローマにも巡礼をした。彼は、当時の聖職者と信徒たちの行いに疑問を抱き、彼らの信仰生活を正しく導くために、ローマ人が渡来してから彼の時代までのイングランドのキリスト教史を著した。当時の生活と教会の状況を知るための貴重な資料となっている。
彼は、ブリタニーに修道院を建て、そこで生涯を終えた。
30日 聖バルドヒルド
?-680年ごろ
バルドヒルドは、イギリスに生まれたが、641年に海賊に捕えられ、奴隷としてフランク王国の宮廷に売られた。
彼女は非常に美しく才知ある女性であったので、国王クローヴィス2世に望まれて王妃となった。3人の子どもに恵まれ、国王が亡くなって後、657年に長男が即位すると、彼女が摂政を行った。貧しい人びとのために病院を建て、奴隷制度を廃止し、多くの修道院に寄進するなど、人びとのために尽くした。665年に、反対派の貴族によって修道院に幽閉され、そこで亡くなった。修道院では、謙遜に神の望みを行ない、院長に仕えた。
31日 聖ヨハネ・ボスコ司祭
1815年-1888年
ヨハネは、イタリア、トリノの貧しい農家に生まれた。幼いとき父親に先立たれたが、信仰深い母の影響で司祭になることを志し、神学校に進み、1841年に司祭に叙階された。トリノの貧しい青少年の教育のために、骨身を惜しまず活動した。彼は、愛と優しさをもって子どもたちに接し、「虫を取るためには、酸っぱい酢よりも、1滴の蜜のほうが効果がある」という聖フランシスコ・サレジオ(1月24日 参照)の言葉を心に刻み、実行した。1859年に「サレジオ会」という男子修道会を創立し、1872年にはマリア・マザレロを指導して「扶助者聖母会」(今日では、サレジアン・シスターズと呼ばれている)という女子修道会を創立した。
ヨハネのモットーは、「愛なくして信頼なく、信頼なくして教育なし」ということであった。両会は急速に発展し、世界中に学校や施設を運営し、多くの子どもたちの教育にあたっている。日本でも、青少年のための学校教育を始め、出版活動などをとおして大きな貢献をしている。