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聖人カレンダー

3月の聖人

1日 聖ダビッド(ウェールズ)

495/500年-589/601年

 ダビッドは、デヴィという名でも知られている。

 11世紀の伝承によると、カーディガンの貴族の家に生まれ、ヘン・ヴィンヨウで教育を受けた。その後司祭となり、10年間聖書の研究に専心し、12の修道院を設立した。ダビッドは、ウェールズ西南部の修道院の院長となり、エジプトの砂漠の隠修士の生活に倣って、非常に厳しい規則を作った。野菜、パン、水しか口にしないという苦行や沈黙、そして慈善事業によって神への追従に邁進した。

 560年にブレヴィの教会会議に招かれたダビッドは、異端に対する雄弁な説教によって人びとを感動させた。そのとき、聖霊が鳩の形で肩にとまったといわれる。そのため絵画には、肩に鳩をとまらせた姿で描かれている。

 ウェールズには彼の名をつけた教会が50以上あり、セント・ダビッドの地の教会は、中世に有名な巡礼地となった。ダビッドはウェールズの守護の聖人とされ、3月1日は同地において彼を記念する祭りが盛大に祝われている。



2日 ボヘミア(プラハ)の聖アグネス

1211年-1282年

 ボヘミア聖アグネスは、ボヘミア王オタカル1世の女として、1211年にプラハで誕生しました。母は、ハンガリー王エンドレ2世の姉妹コンスタンスで、ハンガリーの聖エリザベトの姪になります。
 3歳でシレジアのトシェブニツァにあるシトー会の修道院に送られ、そこで教育を受け、6歳でプラハへ戻りました。

 アグネスは、皇帝フリードリッヒ2世の息子とイングランド王ヘンリー3世から求婚されましたが、教皇グレゴリオ9世の保護のもとクララ会の修道院に入会しました。

 1232年に兄から譲られた地に、病院、翌年には修道院を建てました。その後、ボヘミアは飢饉や疫病、戦争が続き、多くの貧しい人がアグネスの修道院へ避難して来ました。 1234年に修道院長となったアグネスは、深い信仰と祈りをもって教会を支え、人びとを助けました。
 修道院は彼女の名を取って聖アグネス修道院と呼ばれています。

 また、たびたび聖クララと手紙を交わし、聖クララからアグネスに宛てた手紙が、今も残っています。

 1989年11月12日、ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。
 修道院はフス戦争で荒廃し1782年に破却されたましたが、1960年に復元されて、現在は、プラハ国立美術館の別館となっています。



3日 聖クネグンダ皇后

?-1033年

 クネグンダは、ルクセンブルクの貴族の家に生まれ、信仰深い両親のもとで育った。988年に、後のドイツ皇帝ハインリッヒ2世(7月13日 参照)と結婚した。祈りに励む一方、戦争に行って不在がちな夫の代理を務め、国を視察し、病人や貧しい人びとに救いの手をのべた。

 1014年に彼女は夫ハインリッヒ2世とともに、教皇ベネディクト8世から「教会の擁護者」として戴冠した。その後、修道院を建築するなど夫に協力し、善政を行った。

 夫の死後、クネグンダは王位を親戚に譲り、自らはベネディクト会の修道院に入り、規則を忠実に守って神と共同体への奉仕に身をささげた。

 彼女は、夫ハインリッヒ2世の傍らに葬られた。王と王妃は、神に仕えるために終生童貞を守ったといわれている。



4日 聖カシミロ

1458年-1484年

 カシミロは、ポーランド王カシミロ4世の息子として生まれた。母親の影響で信仰深く育てられ、幼いときから宗教教育を受けた。

 1471年、父の命令によってハンガリー王になることを強いられたカシミロは、同国に向かう途中に敵と戦うことなく引き返してきたために、父王の怒りをかい、一時城に軟禁された。その間も、たゆまず祈り、イエス・キリストの受難に心を合わせていた。

 カシミロは、父王が不在のときには国内を統治し、国民に心を配った。生涯独身を誓い、神にささげて生き、26歳の若さで結核で亡くなった。

 彼の徳は国民から慕われ、死後も彼の墓地では多くの奇跡が起こったといわれる。

 ポーランドの保護の聖人として親しまれている。



5日 聖フリドリノ司祭

?-538年

 フリドリノは、アイルランドの貴族の家に生まれた。若いころから、司祭となって神に生涯をささげたいと望んでいた。司祭になると、ゴールやドイツ、スイスなどを巡って説教をし、多くの人びとを信仰に導いた。そのため「さまよう人」とも呼ばれた。フリドリノは多くの修道院を設立した。また、バンダル族によってフランス、ポアティエ市の修道院が破壊されたときに失われた聖ヒラリオ(1月13日 参照)の遺体を発見し、同地に聖ヒラリオの記念聖堂を建てた。

 フリドリノが建てたライン川近くの教会の周辺には人びとが集まり、セッキンゲンという町となり、今日に至るまで彼への崇敬が盛んである。



6日 聖クローデガング(メッツ)

715年ごろ-766年

 クローデガングは、ベルギーのリエージュ市で生まれた。修道院で教育を受けた後、カール・マルテル王の司法官、大臣として仕える一方、自らは貧しく暮らし、多くの病人や貧しい人びとを助けた。

 クローデガングは信徒であったが、王の命令によって、742年にメッツの司教に任命され、修道院設立、再建など教区内の改革を積極的に行った。イタリアのゴルツェの修道院は、彼が設立した中でも最も大きく、そこの宗教音楽は有名になった。またクローデガングは、司祭たちが聖ベネディクトの会則のもとに共同生活をするよう推進した。聖ボニファチオ(6月5日 参照)の死後、754年に大司教に任ぜられた。



7日 聖ペルペトゥア殉教者/聖フェリチタス殉教者

?-203年

 ローマ皇帝のキリスト教迫害下に、北アフリカのカルタゴで5人のキリスト教志願者が捕えられた。その中に2人の女性、ペルペトゥアとフェリチタスがいた。
 貴族出身のペルペトゥアは乳飲み子がいる22歳の婦人であり、フェリチタスも妊娠中の奴隷であった。5人をキリスト教に導いた宣教師サトルスも、後から捕えられた。5人の求道者は監禁されている間に洗礼を受け、すぐに投獄された。

 ペルペトゥアは、棄教するようにとの父親からの説得を拒み、牢獄を宮殿と書き残している。裁判の結果、全員に死刑の判決が下され、猛獣の餌食となる刑を受け、殉教した。
 ペルペトゥアの殉教録は、3~4世紀のキリスト者の殉教観を見る上で貴重な資料となっており、古代・中世をとおして影響を与えた。



8日 聖ヨハネ・ア・デオ修道者

1495年-1550年

 ヨハネは、ポルトガルのモンテ・モル・イル・ヌオヴォに生まれた。幼いときから冒険心があり、8歳で家を出てスペインに行き、羊飼いとして働いた。その後ハンガリーで軍人となり、次いでアフリカに渡り、キリスト教徒を救うために殉教する覚悟を抱いていた。しかし司祭の説得によってスペインに戻り、町や村で信心の本を売り始め、グラナダで店を開くまでになった。

 そのころ、彼はアビラのホアン司祭の説教を聞いて感銘を受け、公衆の面前で罪の告白をし始めたために、人びとから気が狂ったと思われ、精神病院に入れられた。病院でのひどい待遇の体験によって、ヨハネは自らの使命を悟り、1539年に貧しい人びとのための病院を設立し、人びとのために尽くした。グラナダの司教の支援や、多くの人びとの寄付によって事業は広がった。

 55歳のとき、ヨハネは溺れかかった子どもを救おうとして自らの命を落とした。彼の死後、1570年に彼の功績を称える信徒たちによって「聖ヨハネ病院修道会」ができ、イタリア、スペインなどヨーロッパ諸国に発展していった。

 彼は病人の保護者、本屋の保護者とされている。



9日 聖フランシスカ(ローマ)修道女

1384年-1440年

 フランシスカは、ローマの貴族の家に生まれ、信仰深く育てられた。幼いころから、修道院に入って神に生涯をささげたいという望みを抱いたが、13歳のときに両親の望みに従ってロレンツォ・ポンチオニという裕福な貴族の青年と結婚した。6人の子どもに恵まれ、妻として母として理想的な家庭を築いた。

 ローマが1400年からの内戦によって荒廃していたときには、義理の姉とともに貧しい人びとの救済や、病人の看護に献身的に当たった。フランシスカのもとに、志をともにしたいとする婦人たちが集まり、1425年に、貧しい人びとを救済するための会「トル・デ・スペキ女子修道会」を創立した。フランシスカは修道会を会外から指導していたが、1436年夫の死を機に自らも共同体で生活を始め、修道院長として亡くなるまで会員を導いた。

 彼女はしばしば神秘体験をし、守護の天使と親しく語らったといわれる。息を引き取る前にも、「天使が後についてきなさい、と手招きしています」と言ったと伝えられている。



10日 聖ドメニコ・サヴィオ

1842年-1857年

 ドメニコは、イタリアのトリノ近郊の鍛冶職人の家に生まれた。12歳のときに、サレジオ会の創立者である聖ヨハネ・ボスコ(1月31日 参照)の学校に入り、彼の指導のもとに感性豊かに成長した。仲間とともに「無原罪信心会」をつくり、友愛を示し、仲間からも慕われた。

 しかし肺炎にかかり、両親のもとに戻ってから数日後に、15歳という若さで亡くなった。ボスコは、ドメニコの伝記を書き、彼の神と人への真摯な姿勢を称えている。



10日 聖シンプリチオ(シンプリキウス)教皇

在位468年-483年

 シンプリチオは、イタリアのティボリに生まれた。476年、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入によって滅ぼされ、教会は混乱の最中にあった。偶像崇拝やアリウス派の異端が広まり、東ローマ帝国の皇帝も異端説を信じていた。

 その激動期にシンプリチオは教皇として選出され、正当信仰を擁護し、教皇権を守り主張するとともに人びとを支え、教会の発展に努めた。

 483年、教会のために生涯をささげたシンプリチオは神に召され、聖ペトロ大聖堂内に葬られた。



11日 聖ソフロニオ司教

560年ごろ-638年

 ダマスコに生まれた。若いころから隠修士となることを望んで、エルサレムの聖テオドシオ(1月11日 参照)の修道院で学び、エジプトに巡礼し、厳しい修行をしながら聖書、哲学を学んだ。

 634年、エルサレムの総大司教に任命されたソフロニオは、当時広まっていた異端モンテレティズム(イエス・キリストが、神の意志と人間の意志の2つを持っていることを否定する説)と戦うため、教皇やコンスタンチノープル司教に手紙を書くなど、正当信仰の擁護に尽力した。

 また、636年にはサラセン人の侵略にあうなど、混乱の中にあったキリスト信者たちを励ました。

 ソフロニオは、多くの困難に遭いながらも、神と人びとへの愛のために生涯をささげた。



12日 聖マクシミリアノ

274年-295年

 マクシミリアノは、アフリカのヌミディアのテベステに生まれた。ローマ皇帝マクシミアーヌスの兵士として徴兵されたが、皇帝の兵士としてではなくキリストの兵士として仕えたいと言って徴兵を拒否したため、法廷に連れて行かれた。当時、軍役を拒否する者は死刑に処せられることになっていたので、裁判官はマクシミリアノの心を変えさせようとしたが、彼の決心は変わらなかった。すぐに彼は刑場に連れて行かれ、21歳の若さで殉教した。



13日 聖エウフラシア修道女

382年ごろ-412年ごろ

 エウフラシアは、コンスタンチノープルに生まれた。父は元老院議員で、ローマ皇帝テオドシウス1世の親戚であった。

 幼くして父を失ったエウフラシアは、皇帝の勧めで元老院議員の息子と婚約した。しかし、7歳のときに母とエジプトに行って、修道院の近くに住み、たびたび修道院を訪れるうちに修道生活にひかれ、生涯を神にささげたいと思うようになった。

 母の死後、12歳のときに、皇帝から婚約者と結婚するようにといわれたが、彼女は本当の望みを皇帝への手紙に書き、結婚を辞退した。そして遺産を貧しい人びとに施してほしいと皇帝に依頼し、自らは修道院に入った。同僚の修道女たちの嫉妬によって苦しんだこともあったが、常に優しさと忍耐をもって、神と共同体に謙遜に奉仕した。



14日 聖マチルダ皇后

890年ごろ-968年

 ザクセンの貴族の娘マチルダは、修道院で教育を受け、信仰深く育てられた。909年にドイツ王ハインリッヒ1世と結婚した。6人の子どもに恵まれたが、王の死後4人の息子たちの王位継承争いに心を痛めた。

 彼女は、次男のハインリッヒが長男のオットーよりもふさわしいと思ったが、オットーが選出された。マチルダは、ハインリッヒがババリアの王になるように力を尽くして、オットーとの間の平和を保たせた。また、二人の息子オットーとハインリッヒは、貧しい人びとのために尽くすマチルダを非難したが、オットーは妻のエディトの忠告でマチルダに謝罪したといわれている。

 彼女は、クヴェドリンブルク女子修道院、ノルトハウゼン修道院などを建設し、貧しい人びとへの援助を熱心に続け、人びとから親しまれた。そして自らもノルトハウゼン修道院に入って余生を送り、自分の財産をすべて貧しい人びとに施した。



15日 聖ルイーズ・ド・マリアック

1591年-1660年

 ルイーズは、フランス、パリの貴族の家に生まれた。ドミニコ会の修道院で教育を受け、その後ラテン語と哲学を学んだ。21歳のとき、アントワーヌ・ル・グラ伯爵と結婚し、一子に恵まれた。夫に先立たれてから、聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭(9.27参照)の指導を受けて、祈りと貧しい人びとの世話、福祉事業に励み、彼のよき協力者となった。 当時、パリは内乱と伝染病の流行により、多くの病人と孤児、避難民が出ていた。その人びとに献身していたルイーズのもとに、志をともにする娘たちが集まり、1633年に「愛徳姉妹会」を創立した。

 ルイーズは、児童の初等教育を推進し、またビンセンチオとともに国家の福祉事業を発展させていった。

 会はフランス全土に広がり、世界各国に発展していった。

 同会は1933年に来日し、大阪、神戸、和歌山、東京などに修道院をもち、保育園、幼稚園、養護施設などを経営し、福祉事業に奉仕している。



16日 聖ヘリベルト大司教

970年ごろ-1021年

 ヘリベルトは、ドイツのヴォルムス市の貴族の息子として生まれた。ロレインの修道院で教育を受け、司祭となり、994年に皇帝オットー3世の高官となった。ヘリベルトは、オットー3世の良き相談相手であると同時に友人であり、政治家としても手腕をふるった。999年にケルンの大司教に就任した後も政治にかかわり、皇帝を支えた。また当時は、多くの聖職者が国務に携わっていたので、ヘリベルトは、彼らの霊的務めを深めることにも力を注いだ。

 次の皇帝ハインリッヒ2世は、長い間ヘリベルトに良い感情を抱いていなかったため、彼を投獄したときもあったが、ヘリベルトの死の直前に、彼の知識と誠実さを認め、和解した。



17日 聖パトリック司教

385/390年-461年ごろ

 パトリックは、ブリテン島西部に生まれた。若いころにアイルランドの海賊に捕えられ、奴隷として売られた。苦しみの中でパトリックがしたことは、祈ることであった。ある日彼は脱走し、多くの困難に遭いながら、故郷に着いた。そこで、彼は聖ジェルマノの弟子となって神学を学び、フランスのレラーンスの修道院で生活したのち司祭となった。435年ごろからアイルランド宣教に派遣され、キリスト信徒のほとんどいない国で、人びとを信仰に導いた。アルマーを中心として各地の教会の組織化に努め、修道院制度を推進した。444年ごろ、アルマーを大司教区に定めて彼自身が司教に就任し、アイルランドのキリスト教化と文化の発展に貢献した。アイルランドのキリスト教化は、アメリカなどのカトリック教会の最初の土台となった。

 彼の著書である『告白』と『書簡』を読むと、パトリックがいかに神に信頼をよせ、謙遜で信念をもった人物であったかがうかがえる。

 パトリックについては多くの伝説があり、アイルランドからすべての蛇を追い出したとか、三つ葉のクローバーで三位一体を説明したという話が残っている。

 彼は、アイルランドの守護の聖人で、国民から最も親しまれている。



18日 聖チリロ(エルサレム)司教教会博士

315年ごろ-386年

 チリロは、アレキサンドリアに生まれた。若いころ、聖書や教父の著書を読むなど研鑽に努めた。19歳のときにエルサレムの司教マカリオに選ばれて助祭となり、説教をしたり本を書いて人びとを信仰に導いた。その後司祭となり、マカリオの後継者に選ばれ、司教となった。

 当時は異端のアリウス派が広まり、正当信仰を擁護するチリロは、アリウス派の人びとによって司教座から数回追放され、16年間も流刑の身を強いられた。

 チリロは奇跡を起こし、人びとに信仰を固めさせ、異教の人たちまでも驚かせたといわれる。



19日 聖ヨセフ

1世紀

(この日が日曜日や、聖週間にあたる場合は、移動されます。)

 聖母マリアの夫、イエス・キリストの養父であるヨセフは、ユダヤの王ダビデの子孫であった。
 ヨセフは、新約聖書に記されているように「正しい人」であり、結婚する前にマリアが身ごもっていることを知ると、それを表ざたにすることなく、縁を切ろうとした。しかし夢に現われた天使が、マリアを妻として迎え入れ、マリアの産む子をイエスと名付けるようにとヨセフに告げたので、イエスの養父としての使命を担った(参照 マタイ1.18~24)。

 ヘロデ王が幼な子イエスを殺そうとしている計画を夢で知らされると、マリアとイエスを連れてエジプトに避難し(参照マタイ2.13~15)、またイエスを神殿に奉献するためにエルサレムに行き(ルカ2.22~38)、イエスが12歳のときに、エルサレムからの帰路でイエスを見失ったときは、マリアとともに心配した。彼はガリラヤのナザレで、大工生活を営みながらイエスに労働の大切さを教えた。

 ヨセフは、イエスが30歳になる前に亡くなったといわれている。養父としてのヨセフは、中世の教会に大きな影響を与え、多くの聖人たちの生き方に示唆を与えた。

 彼は、キリストとマリアを守ったことからも、教会の特別な保護者とされている。



20日 聖クトベルト司教

?-686年

 クトベルトは、イギリスの田舎の貧しい町に生まれた。幼いころから信仰深く、山や谷の静かな所で祈りや黙想をした。651年に、メルローズの修道院長の指導のもとに司祭となり、信徒たちの霊的指導にあたった。院長が亡くなった後には、クトベルトが後任を務めた。

 661年、メルローズにペストが発生したときには患者の看病に飛び回り、自らも感染したが、奇跡的に全快した。その後ファルン島に隠遁し、祈りと黙想に専心すると、彼の評判を聞いた信徒や修道者が島を訪れたといわれている。

 684年にはヘクザムの司教に任命され、司牧にあたったが、身体上の都合で辞職し、ファルン島に戻りそこで亡くなった。彼の墓では多くの奇跡が起きたといわれ、巡礼地となった。

 クトベルトは、イギリスの偉大な宣教者であり、船員たちの保護者といわれている。



21日 聖ニコラウス(フリューエ)

1417年-1487年

 ニコラウスは、スイスのフリューエ(現在のフリューエリ)の裕福な農家に生まれ、信仰深く育てられた。農業を営んでいたが、その後軍隊に入り、1444年ごろに敬虔な女性ドロテーアと結婚し、10人の子どもに恵まれた。

 子どもたちが成長し独立した1467年ごろに、ニコラウスは隠修士として余生を過ごすことを望み、家を後にした。ランフト村の聖堂の近くに小屋を建て、祈りと黙想の日々を送った。彼の徳はいつしか広まり、読み書きこそできなかったが、スイスでは最も有名な賢人の一人となり、多くの人びとが彼のもとに相談に訪れ、「兄弟クラウス」として尊敬された。

 1481年にスイスの各州の対立が激化したときには、彼の勧告によって「スタンスの盟約」が結ばれ、平和を回復した。それは、以後スイスの平和の基礎をなすものとなった。

 ニコラウスは、スイスの守護の聖人として親しまれている。



22日 聖デオグラチアス司教

5世紀ごろ

 439年ごろから、カルタゴが異端のアリウス派のヴァンダル族に占領され、司教が追い出された時期が14年間続いた。その後、アリウス派からも同意を得て司教に任命されたのがデオグラチアスであった。当時、アフリカではキリスト信徒たちが奴隷として働かされていた。デオグラチアスは、彼らを解放するために、教会の財産を処分して身代金を捻出した。そして解放された信徒たちを教会内に住まわせ、その世話と信仰生活の指導をした。

 彼の活動を快く思わないアリウス派の人びとは、彼を殺そうとしたが失敗した。アリウス派の迫害にも負けることなく、正当信仰を主張し信徒を励ましたが、数々の心労がかさなり、司教就任後3年で天に召された。



23日 聖トゥリビオ(モングロベホ)司教

1538年-1606年

 トゥリビオは、スペイン、マヨルガの貴族の家に生まれ、信仰深く育てられた。バリャドリード、サラマンカの大学で法学を専攻し、教授となった。彼の才能は知られ、スペイン国王フェリペ2世の目に止まり、聖職者ではなかったが、1574年にグラナダ宗教裁判の首席裁判官に任命された。その5年後、当時スペインの植民地だったペルーのリマの司教に任命され、1581年に同地に派遣された。

 司教区は広大であり、スペインから派遣されている知事たちに牛耳られ、司祭たちは堕落し、先住民族のインディオの生活はひどい状態にあった。トゥリビオは、全ての教区を7年かけて巡察し、腐敗を一掃しようと努めた。

 1583年に司教会議を開き、先住民の教理教育、生活文化の保護などを決定し、南米でのキリスト教のあるべき姿を提示し、改革を行った。司祭、役人、国王からの反対にも屈することなく、トゥリビオの改革は南米に広がった。彼は、学校、福祉施設、教会、修道院を建設し、たえず教区を巡察し、自らは現地語を学び、先住民族の人びとを改宗へと導いた。

 彼は、リマの聖ローザおとめ(8.23参照)とも親しい友人であり、ラテンアメリカでは、先住民族の権利擁護のため働いた代表的な人物として尊敬されている。



24日 聖カタリナおとめ(スウェーデン)

聖カタリナおとめ(スウェーデン)

 カタリナは、スウェーデンの名門貴族の家に、ビルジッタ修道会を創立した聖ビルジッタ(7月23日 参照)の四女として生まれた。7歳のときリスベルクの修道院で教育を受け、14歳でドイツの貴族エガルト・フォン・キュルネンと結婚したが、修道女になりたいとの望みを抱いていたカタリナは、夫に頼んで純潔を貫いた。

 1350年に、カタリナはローマにいる母ビルジッタを訪ね、ともに祈り、巡礼、慈善の生活を送ったが、翌年夫の死を機に、母が1346年にヴァズテナに建てた修道院の確立、発展にともに献身した。1374年に母が亡くなると、同会の修道女となって会を導いた。1375年から1380年にかけて、カタリナは修道会の認可を得るための運動に励み、教皇ウルバヌス6世の支持を得た。



25日 神のお告げ

(この日が日曜日や、聖週間にあたる場合は、移動されます。)
 天使はおとめマリアに、神の子イエス・キリストがマリアから生まれることを告げた。天使の言葉に、はじめはとまどったマリアであったが、神の働きを心に受けとめ「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と、神の母となる使命を受けた(ルカ1.26~38 参照)。

 マリアが親戚のエリザベトを訪問した際に(5.31参照)、神の母となる喜びと主への賛美を歌った聖母マリアの歌「マニフィカト」はとても美しい(ルカ1.47~55)。

 お告げの場面は、キリスト教美術にも、豊かにそして美しく表現されている。



26日 聖ルドゲーロ司教

742年-809年

 ルドゲーロは、オランダで生まれた。ユトレヒトの聖グレゴリオ(707ごろ-776)のもとで教育を受け、後にイギリスに渡って哲学と神学を学び、767年にヨークで助祭になった。777年にケルンで司祭となり、フリースラント、ザクセンで宣教活動に力を注ぎ、多くの人びとを信仰に導き、教会を建てた。

 しかし、ザクセン人の王ウィッキンドが侵入して教会を破壊し、すべての宣教師を追放したため、ルドゲーロもモンテ・カッシーノ修道院に逃れ、2年ほど滞在しなければならなかった。その後、カール大帝の保護を受け、フリースラントとヴェストファーレンで宣教した。795年、司祭たちを組織して修道院を設立した。これがミュンスター(修道院の意味)の始まりである。804年にミュンスターの初代司教に任命されて熱心に司牧活動にあたった。

 ルドゲーロは、亡くなる直前まで説教を続け、キリストの愛に生きた。



27日 聖ルペルト司教(ザルツブルク)

?-718年ごろ

 ルペルトは、メロヴィング王家の血を引くフランス貴族であった。フランス王によって、宣教師としてババリアに派遣され、ババリア公爵テオド2世を改宗に導いた。当時、宣教師たちは異教の寺院を破壊するなど、極端な行動に走っていたが、彼はむしろそれらの寺院をキリスト教会として奉献し、レーゲンスブルクとアルテッティングに祈りの場を設け、人びとを信仰に導いた。

 ルペルトは、古代ローマ人の都市であったジュバブムの廃虚に聖堂を建てるなど宣教活動を行い、また、同地の塩の山の開発を奨励し、文化と経済の発展にも貢献した。これが、ザルツブルグ(塩城)という市の由来といわれる。この市は、後にドイツの首位大司教座の都市となった。

 また、ザルツブルクにペトルス修道院を設立し、ルペルト自らが院長となった。さらにノンベルクに女子修道院を設立し、彼の妹エランドルドを招いてその院長とした。この2つの修道院は、ドイツ語圏において最古のベネディクト会修道院である。

 ルペルトは、バイエルンやオーストリアで尊敬され、ザルツブルクと鉱山の保護者とされている。



28日 聖ヨハネ(カピストラノ)

1386年-1456年

 ヨハネは、イタリアのカピストラノの貴族の家に生まれた。幼くして戦争で父と兄を失った。1406年にペルージアで法学を学び、才能が認められて判事となったが、ペルージア市とリミニ市の間に争いが起こり、ヨハネは投獄された。そのときの体験から、彼は修道生活を送って神に生涯をささげることを決心し、出獄後、1415年にフランシスコ会に入った。

 司祭となってイタリアの各地を説教して巡り、多くの人びとを信仰に導き、また教会、修道院の改革に貢献した。当時フス派(フスは、教皇権を否定し、破門された)が広まっていたので、ヨハネは、フス派の活動を防ぐために、教皇ニコラス5世からオーストリアに派遣された。そしてハンガリー、ボヘミア、オーストリアでフス派に対しての宣教活動に励んだ。

 またトルコ軍によって1453年にコンスタンチノープルが陥落し、キリスト教が危機にされされていたので、ヨハネはトルコに対して十字軍を結成することを説き、1456年、ベオグラードでトルコ軍を破った。その後、彼は伝染病にかかり亡くなった。



29日 聖ヨナ、聖パラキシオ兄弟殉教者

4世紀ごろ

 ヨナとパラキシオは兄弟であり、ペルシャのベト・アサに生まれた。2人は、熱心なキリスト信徒であった。当時、ペルシャはシャプール2世の統治下にあり、キリスト教に対して厳しい迫害が行なわれていた。兄弟は、捕えられている信徒たちを慰めるために牢獄に出かけていたが、ついに彼らも捕まり、法廷に連行された。そしてペルシャ王を崇拝し、自然の神々を礼拝することを強いられたが、拒んだために死刑を宣告された。

 残酷な責め苦の後に、ヨナは体を押しつぶされ、パラキシオは尖った木を体に突き刺されるという刑を受け、最後まで神を賛美しながら殉教した。



30日 聖ヨハネ・クリマコ修道者

570年ごろ-649年

 ヨハネは、パレスチナで生まれた。16歳のときに、シナイ山の修道院に入った。ヨハネは体こそ弱かったが、マルチリオ修道士の指導のもと、忍耐と謙遜をもって修道院の規則に従い、人一倍勉強をし、神への追従に努めた。その後、恩師であるマルチリオの勧めに従ってシナイ山麓に小屋を建て、独居生活を始めた。そこで黙想、苦行、労働を行ない、徳を磨いていき、多くの人びとに影響を与えた。

 その後、シナイ山の修道院の修道者たちに推薦され、修道院長となった。彼は、『天国への梯子』という本を著わした。(ギリシャ語で梯子を「クリマコ」という。)本の内容は、イエスが洗礼を受けた年齢(30歳)にちなんで30の段階に分けられ、聖化の過程が示されている。自らの体験や他のすぐれた聖人たちの言葉が引用されており、後代に大きな影響を与えたといわれている。



31日 聖バルビナおとめ

2世紀

 バルビナは、ローマに生まれた。父クイリノはローマの職業軍人であった。バルビナは、美貌と才能に恵まれ、結婚の申し込みが多かったが、あるとき顔に腫瘍ができて以来治らず、醜い容貌となってしまった。

 途方にくれていた親子は、キリストとその弟子たちの行っている奇跡を知り、バルビナの病気が治るならば家族でキリスト信徒になることを誓った。

 そのころローマは、皇帝ハドリアヌスのキリスト教迫害下にあり、教皇アレクサンデルも牢獄につながれていた。クイリノはバルビナを連れて牢獄を訪ね、教皇とともに神に祈ると、バルビナの顔はもとの美しい顔に戻った。家族はすぐに洗礼を受け、キリストの宣教に力を注いだ。バルビナは、キリストに生涯をささげたいと願い、終生独身を守ることを決意し、貧しい人びとや、苦しむ人びとの助けに力を尽くした。

 しかし迫害の手を逃れることはできず、法廷に連行された父とバルビナは、信仰を守りぬき殉教した。信徒たちは、彼女を記念してローマのアヴェンチノの丘に聖堂を建てた。



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