聖人カレンダー
5月の聖人
1日 労働者聖ヨセフ
1052年-1132年
この日はメーデーで、労働者の日である。ヨセフは、イエス・キリストの養父として、大工の仕事にいそしみながら、イエスとマリアを養った。彼は、労働は人間性を高める手段であることを教えてくれた。1955年に教皇ピオ12世は、この日を労働者の模範であるヨセフの保護のもとにおき、感謝の日と定めた。肉体的な労働にせよ、知的労働にせよ、わたしたちがどういう意向で働くかが大切である。
2日 聖アタナシオ司教教会博士
294年-373年
エジプトのアレキサンドリアに生まれた聖アタナシオは、20歳のとき砂漠の隠遁者聖アントニオと出会い、彼のもとで数年間修業した。修道生活を東方から西方にもたらしたのもアタナシオである。
そのころ同じ町でおこったアリウス派の異端(キリストの神性を否定)がしだいに広がり、社会不安にまでなっていった。このため、時のローマ皇帝コンスタンティヌスは、325年にニケア公会議を開いた。司教からの依頼を受けたアタナシオは、綿密な論陣をしいてこの異端と大論争をし、大多数の司教たちの支持を受け、教会は「キリストは本性において神である父と同一のもの」であると宣言し、信仰をはっきりさせた。このときに定められたのが、ニケア使徒信経である。アタナシオは、328年にアレキサンドリアの司教になり、公会議とその教えを支えたが、歴代のローマ皇帝の変転する宗教政策により、追放5回のべ17年間の亡命生活を余儀なくされた。その間多くの優れた著書を残した。
3日 聖フィリポ 聖ヤコブ使徒
?-78年ごろ/?-62年
聖フィリポは、ガリラヤのベトサイダで生まれ、イエスに従った最初の弟子の一人であった。福音書には、フィリポについてわずかしか記されていないが、イエスと親しく交わり、素朴で用心深く、現実的な人であったといえる。その後の活動については、伝えによると、今のトルコのフリジアで宣教し、そこで殉教したといわれる。彼は、さらし業と帽子業の保護の聖人である。
聖ヤコブは、使徒大ヤコブと区別するために、小ヤコブとも呼ばれる。ヤコブは、イエスの親類であり、エルサレム教会の初代司教となった。彼は市民から尊敬され、多くの人を信仰を導いたが、そのためファリサイ人の反感をかい、殉教した。最後の瞬間まで、自分を殺す者たちのために祈った。
4日 聖十字架発見の記念
312年に「ミラノ勅令」で信教の自由を保証たコンスタンティヌス大帝の母聖ヘレナ皇后は、熱心なキリスト信者であった。彼女は、イエスの釘付けられた十字架を一目見たいという望みにかられ、ゴルゴダの丘を発掘させ、3つの十字架を見つけた。その中の一つに触れると病気が治ったりするなど、かずかずの奇跡が起こったので、その十字架こそ、キリストがはりつけられた聖十字架であるということが確証された。コンスタンティヌス大帝は、キリストが十字架に付けられた場所と復活された場所に、キリストの死と復活を記念する十字架聖堂と復活聖堂を建てた。
5日 アルルの聖ヒラリオ司教
400年-449年
アルルの聖ヒラリオ司教は、フランスの貴族の家庭に生まれ、地方の役人として有望な職に就いていた。しかし、親戚であり、後に司教となったホノラトゥスのすすめで、共に修道生活をはじめた。ホノラトゥスがフランス南東部にあるアルルの司教に叙階されたとき、ヒラリオは補佐として選ばれ、彼自身も29歳のときに司教となった。
彼は司教になってからも、修道者のように祈りと労働に励み、持ち物を売っては、貧しい人たちに施していた。才能に恵まれた、すぐれた説教家であり、質素な服装で、あらゆるところに歩いて旅をした。
当時、南部のガリア地方(現在のフランス、ベルギーなどの一部にあたる)では、マルセイユのカッシアヌスの指導を受けた修道者を中心に半ペラギウス派が広がり、レランス修道院はその拠点であった。彼らは、神は善を求める人間の意志を助けるが、神ではなく、人間がはじめの第一歩をなすと考え、ヒラリオも半ペラギウス派であったと言われている。
彼はガリア地方における裁治権を広げようと、フランス東部にあるブサンソンの司教をやめさせたが、教皇レオ1世によって取り消された。彼の残した著書『聖ホノラトゥス伝』には、ホノラトゥスの生涯と説教が描かれている。449年、49歳で亡くなった。
6日 聖フェルナンド3世・王
1199年-1252年
フェルナンドは、スペイン国王アルフォンソ9世とカスティリアのベレガリアの間に生まれた。1217年にカスティリアの国王となり、国民の幸せを願い、熱心な信仰生活の手本を示しながら人びとを導いた。質素な生活をし、国政をとるのも祈りのうちにしたといわれる。当時のスペインは大半がイスラム教の支配下にあったため、フェルナンドはそこを攻略しスペイン全土をカトリック国として統一した。彼は、フランシスコ会第三会に入会したので、その保護の聖人の一人とされている。
7日 聖ローザ・ビテルリー
1656年-1728年
ローザは、イタリアのヴィテルボで生まれた。父は医師であった。修道院に入ってから父親が亡くなったので、一人になった母親の世話をするために家にもどった。リーダーシップがあるローザは、やがて近所の若い女性たちを集めて祈りの集いを開くようになり、1685年には、女性たちのための学校を開いた。ローザは天才的な教育者だった。子どもを通わせる親たちは、品位を重んじたローザの教育をとても喜んだ。
ローザの評判は広がり、司教に招かれて学校を組織化したり、教師を育てたりし、その後、さまざまな地域で学校を組織化していった。1713年、教皇クレメント11世は、ローマに学校を開いたローザを祝福した。この熱心でひたむきな教師は、1728年5月7日、72歳の生涯を閉じた。1952年、教皇ピオ12世によって列聖された。
8日 聖ペレグリーノ修道者
1751年-1816年
ペレグリーノは、イタリアの中部フォルリー市で育った。彼が少年のころ、市は教皇の権利を無視するようになっていた。そのため、教皇は聖フィリポをその市に送り、人びとを教会に立ち戻らせようとした。ペレグリーノも、フィリポの説教と熱意にうたれ、フィリポがいる「マリアのしもべ会」に入った。ある日、聖母マリアがペレグリーノに現われて、彼の名前「ペレグリーノ」は「旅人」の意味であり、その名が示すように地上において旅人になると言われた。そのとおり、彼はいつも立って出歩くことを自分の生涯と決めた。彼はフォルリー市の貧しい人びとや病人を訪れて慰め、懸命に働いた。
9日 聖パコミオ
290年ごろ-346年
エジプトのパコミオは、青年時代に自分の望みに反して軍隊に入れられた。そのため軍隊に反発する若者たちとともに、係の士官から罰として監禁され、囚人としてナイル川を下って連れて行かれた。そのとき出会ったキリスト信者に、彼らは食べ物を与えてもらった。パコミオは、その親切な行為に感激して、軍隊から解放されたとき信者となった。そして砂漠にこもり祈りと修行に励み、その後ナイル川の岸に修道院を創立した。彼は、 聖なる規則のもとに聖書を読み、仕事をし、祈る生活をする、高度に組織化された修道院を作った。
10日 聖アントニーノ大司教
1389年-1459年
アントニーノは、イタリアのフィレンツェに、公証人ピエロッチの子として生まれた。彼は小さくておとなしかったので、人びとからアントニーノ(小さいアントニオ)と呼ばれた。学問や美学の才能に恵まれ、16歳のときにドミニコ会に入る。後に、イタリア各地のドミニコ会の院長および総長を40年間務めた。彼の教会法の学識は高く評価され、1439年のフィレンツェ公会議に神学顧問として列席し、1446年にフィレンツェの大司教になった。生活は質素で、お金や食べ物などを貧しい人びとに与え、ペストが流行したときにはその援助に尽くした。
11日 聖レステルプのウォルター大修院長
?-1070年
ウォルターは、フランスのレステルプの修道院で、亡くなるまでの38年間院長を務めた。1062年に目が見えなくなるが、仲間の修道士たちの願いから、院長職を続けた。ウォルターの判断力はとても優れていたので、教皇は彼に、キリスト教の教えに不忠実で罪を悔い改めない者を、カトリック教会から破門する権力を与えた。ウォルターは寛大な人物で、料理人がうっかりして金曜日(その日は、キリストが十字架にかかった日であるから、肉食を避ける規則があった)に肉料理を作ってしまったときも、彼は自らその肉料理を食べ、人びとに規則を越えるキリストの愛を示したといわれる。
12日 聖ネレオ 聖アキレオ殉教者
1世紀ごろ/1世紀ごろ
ネレオとアキレオは兄弟である。ローマの軍隊に入ったが、キリスト教を迫害する皇帝の残酷な命令に従うことに良心のとがめを感じ、軍隊をやめた。2人は使徒聖ペトロから洗礼を受け、皇帝の近親である皇女ドミチラに仕えた。彼らのキリスト教に基づいた態度はドミチラに良い影響を与え、彼女も洗礼を受ける。しかし、それを知った皇帝は怒り、3人に信仰を捨てるよう命じた。しかし3人とも命令に従わなかったため、兄弟は追放されて首をはねられ、ドミチラも後に殺された。
12日 聖パンクラチオ殉教者
289年ごろ-304年
聖パンクラチオは小アジア(トルコ)のフリジアで生まれた。両親はローマの市民権を持っていた。母親のクレオニアはパンクラチオが生まれる際に亡くなり、パンクラチオが8歳のとき、父親は彼を残して去ってしまった。彼は叔父に育てられ、後にローマに移り、そこで受洗した。その後熱心な信者となったが、ローマ皇帝ディオクレティアヌスのときに捕らえられた。ローマの神々に犠牲をささげ、皇帝に忠誠を誓えば、富と権力を与えると約束されたが、彼は拒否した。パンクラチオの強い信仰は皇帝の怒りを買い、最後は首を斬られて殉教した。
遺体はカタコンベ(ローマ)に埋葬され、500年、聖シンマコ教皇は聖パンクラチオの墓の上に大聖堂を建てた。現在、大聖堂にはパンクラチオの遺骨が収められている。
13日 ファチマの聖母
ファチマは、ポルトガルの山の中にある村です。1917年5月13日、ここに聖母がご出現なさったのは、第一次世界大戦さなかのことでした。聖母のご出現を受けたのは、3人の牧童でした。
そのとき、一番年上が ルチアという10歳の女の子、次がルチアのいとこで9歳のフランシスコという男の子、そしてその妹で7歳のヤシンタでした。彼らは、祈ることは知っていましたが、まだだれも読み書きを知りませんでした。
この日、いつものように羊たちと家を出て丘で遊んでいると、突然、非常に激しい閃光が光り、小さな柊(ひいらぎ)の木の上に、光そのもののように輝く貴婦人が立っていました。
貴婦人は、子どもたちに6ヵ月間続けて、毎月13日に、今日と同じ時間に、ここに来るようにと願われました。そして、6回目のご出現で、貴婦人は「ロザリオの元后」であることを名乗られ、ここに聖堂を建てて欲しいこと、毎日コンタツ(ロザリオ)を唱えることを続けるように願われ、もうすぐ戦争が終わり、兵士たちが家にまもなく帰ることを告げられました。
聖母は、ファチマでも、ルルドと同じように、病人を癒されました。そしてこのご出現で、3人の子どもたちにいくつかの啓示を与えられました。それは、現代の人びとのおごりに対する警告です。
13日 聖マリア・ドメニカ・マザレロ修道女
1837年-1881年
北イタリアのモルゼーネの村に生まれたドメニカは、両親の熱心な信仰と村の教会の教育によリ、信心深い少女に成長した。17歳のとき「無原罪の聖マリア処女会」という信心会に入り、友人たちとともに裁縫教室を開いて、少女たちに教えたり、養育院を設けて子どもたちの世話をした。
彼女の教会の主任司祭の友人であったドン・ボスコは、彼女の事業に注目し、励ましたりアドバイスを与えたりした。またボスコは、「無原罪の聖マリア処女会」を修道会にまで昇格させるよう働きかけ、ドメニカの事業を世界的に発展させる道を開いた。そして創立者をドン・ボスコ、初代総長をドメニカとする新しい修道会「サレジアン・シスターズ(扶助者聖母会)」が創立された。彼女の死後も、修道会は目覚ましい発展をとげ、青少年の教育に献身している。
日本には1929年に渡来し、東京、清水、川崎、大阪、大分、別府、湯布院、中津、長崎、大村などで、星美学園、養護施設など教育事業にあたっている。
14日 聖マチア使徒
1世紀
イエスの弟子であった12使徒の一人。イスカリオテのユダがイエスを裏切ったので、他の使徒たちは、その後任を2人の候補者から選ぶことにした。弟子たちは集まって熱心に祈ってから、くじを引いた。そのくじにあたったのがマチアである。マチアについては、はっきりしたことはわかっていないが、彼は最初からイエスの弟子となったユダヤ人であった。マチアは、エルサレムからエチオピアまで宣教の足をのばし、その地で殉教したといわれる。遺骨は、4世紀にローマに運ばれ、後にドイツのトリール司教座聖堂に移された。
15日 聖イシドロ農夫
1070年-1130年
スペインのマドリッドの貧しい農家に生まれたイシドロは、幼いころから父の農業を手伝っていたが、一家の貧窮を救うために裕福な地主のもとで働くようになった。彼は熱心に働いたので、毎日、教会の中で祈る時間をもらうことができた。休まずに働いている他の人より、イシドロが耕す田のほうが収穫が多かったのである。
彼は、「わたしは、植えるが、成長させるのは神である。植える者も水を注ぐ者も取るに足りない。ただ尊いのは成長させてくださる神である」という信念から、労働に祈りを合わせていった。温かい心の持ち主で、ある雪の降る日、小麦を製粉所に運んでいく途中、小鳥が食べ物がなく震えているのを見て、小麦の半分を与えた。減っているはずの小麦が、製粉所に着くまでに奇跡的にいっぱいになっていたという。農業の保護者である。
16日 ネポムクの聖ヨハネ司祭
1330年ごろ-1393年
ヨハネは、南ボヘミアのネポムクに生まれた。幼いころから司祭になることを志し、プラーグで神学、特に教会法を学んだ。司祭になると、プラーグ教会の主任司祭として活躍し、彼の博学と徳の高さが評判となって、人びとの間に広まった。
王の願いで、宮廷の聴罪司祭(罪の告白を聴き、ゆるしを与える務めをもつ)となる。しかし、王の信心は表面的で、事あるごとに民に対して横暴な態度をとるので、皇后ヨハンナが王のわがままをいさめようとしたが、かえって王の怒り招き、さらに側近からざんげんされ、無実の罪を着せられるという事件が起きた。そのとき王はヨハネに、皇后の罪の告白の内容を告げるように命令した。しかし、ヨハネは司祭として告白で聞いたことを他言することはできないと、告白の秘密を守る義務を貫いた。そのため、ヨハネは、王から残酷な仕打ちを受けて殺された。
1719年のヨハネの列聖調査のとき、彼の舌は腐食していなかった。人びとは彼の神に対する忠実さを賛え、聖堂に遺物として保存した。
17日 聖フェリクス・カンタリチオ修道士
1515年-1587年
フェリクスは、イタリアのウンブリア州の貧しい家に生まれた。あるとき、修道士についての伝記を読んで感動し、アシジの聖フランシスコの流れをくむカプチン会に入って、30歳まで修練に励んだ。後に、ローマに派遣されてから亡くなるまでの42年間、人びとから施しを請う役割を果たし続けた。道を歩くときはロザリオの祈りを唱え、人から施しを受けるときはもちろん、ののしられても必ず「デオ・グラチアス(神に感謝)」と柔和に答えていた。そのようなことから、彼は「デオ・グラチアス修道士」と呼ばれ、その徳の高さは輝き、行く先々で人びとからも歓迎された。しかし、彼は決して高ぶることなく、自分のことを「カプチン修道会のロバ(怠け者)」と言っていたという。
18日 聖ヨハネ1世教皇殉教者
在位523年-526年
ヨハネ教皇は、イタリアのトスカナに生まれ、聖職者の中では若いときからその雄弁さと模範的生活で知られていた。523年に教皇に選ばれる。当時イタリアは、異端を唱えたアリウス派を擁護する東ゴート族のテオドリックの支配下にあったが、東ローマ帝国のユスチノ1世は、アリウス派をカトリック教会と併合する勅令を出していた。テオドリックは勅令を取り消させるために、教皇ヨハネ1世を団長とし、無理やりに東ローマに折衝に行かせた。(ヨハネは東ローマ帝国を訪れた最初の教皇となる。)その結果、アリウス派の教会は自由になるが、テオドリックはヨハネを逮捕した。数日後、ヨハネは獄死した。
19日 聖イヴォ司祭
1253年-1303年
イヴォはフランスのブルターニュ州の信仰深い貴族の家庭に生まれた。幼いときから「聖人になりなさい」と母に言われていた。14歳のときパリで神学、憲法、教会法を学ぶかたわら、病院を訪問して患者の世話をした。司祭になってから聖職判事に任命されると、貧しい人びとの事件を無料で引受けたり、遠い教会に説教に出かけたり、また自分の家の近くに貧しい人のための診療所を開き心身両面の世話をしたりして、「隣人を自分のように愛しなさい」という、キリストの教えを生涯貫いた。彼は、弁護士の保護者とされている。
20日 聖ベルナルディノ(シエナ)司祭
1380年-1444年
ベルナルディノは、イタリアのマッサ市の名家に市長の息子として生まれるが、幼くして両親を亡くし、信仰深い伯母に引き取られて育てられる。彼は隣人愛にすぐれ、ペストが流行したときには命がけで病人の世話をした。22歳でフランシスコ会に入り、司祭になると説教師としてイタリア全国を徒歩で回った。彼の説教はわかりやすく、人びとを感動させるだけでなく、好ましくない習慣を改めさせ、至る所にイエスの名、聖母マリア、聖ヨセフに対する信心を広め、また慈善事業を興させた。司教になるように願われたが、終生説教師としての任務を続け、フランシスコ会の刷新に尽くした。
21日 聖パスカリス・バイロン司祭
1540年-1592年
スペインのトレエルモサの貧しい家に生まれたパスカリスは、幼いころから羊飼いをしていた。そのため学校に行くことができなかったが、自分で読み書きを勉強した。彼は早くから修道院に入りたいという望みを抱き、24歳でフランシスコ会に入った。修道院では規則をよく守り、毎日厳しい苦行をし、貧しい人びとや病人に対しての愛において優れていた。毎日、聖体(ミサによってキリストの体に変えられたパン)の前で祈り、彼の聖体に対する信心の模範は後世まで伝わった。パスカリスは、国際聖体大会と聖体に関係ある保護の聖人とされている。
21日 聖クリストバル・マガヤネス司祭と同志殉教者
1920年代後半
クリストバル・マガヤネス司祭と24人の殉教者は、主に1920年代後半、カトリック教会に対する弾圧が激しかったメキシコで殉教した人びとである。彼らのうち、3人の信徒、デヴィッド・ロルダン・ララ、マニュエル・モラレス、サルヴァトール・ララ・プンテ以外は教区司祭である。彼らが殉教した場所はハリスコ州とサカテカス州など、8ヵ所にわたる。
1917年、メキシコでは新しい憲法が発布されたが、内容は聖職者たちに対する弾圧をはじめとした教会にとっては厳しいものだった。その後、教会、学校、神学校は閉鎖され、外国の司祭たちは追放された。司教団がこれに反対するなか、一部の信徒たちが反乱を起こし、「クリステロ戦争」(1926年-1929年)がはじまった。
この信徒たちの暴動に対し、司教団はあくまでも平和的な解決を求めた。司祭であったクリストバル・マガヤネス(1869年-1927年)も、暴力による反乱に反対した。政府は、これを彼を捕らえるよい機会とし、「クリストバルは、クリステロ戦争を奨励している」と虚偽の報告をした。彼は1927年5月21日、野外ミサを司式していたときに逮捕された。彼は死刑執行者にゆるしのことばを述べ、裁判を受けることなく、聖アグスティン・カロカ司祭(1898年-1927年)とともに、殉教した。クリストバルの最期のことばは、「わたしは無実のうちに死ぬ。わたしのメキシコの兄弟たちが一致するように神に願いつつ、わたしの血をささげよう」だった。
クリストバルをはじめ、殉教した司祭、信徒たちは、政府の迫害と信徒たちの抵抗運動という混乱のなか、信仰のうちにゆだねられた人びとを守ろうと力を尽くし、その結果、死を持って自らを神と兄弟たちのためにささげた。
2000年5月21日サン・ピエトロ広場において、教皇ヨハネ・パウロ2世によって、列聖された。
22日 聖リタ(カシァ)修道女
1381年-1457年
リタは、イタリアのウンブリアの小さな村に生まれた。両親が高齢になってから生まれたので、神からいただいた賜物として、両親は大切に育てた。リタは、カシアにあったアウグスチノ会の修道院に入ることを夢見ていたが、両親が決めた青年に嫁いだ。2人の間に双子が生まれたが、夫の激しい性格に苦しみ、リタは祈りによって家庭生活を支えた。ある日、町を二分する政党の争いに巻き込まれた夫が、暴力を受けて亡くなった。リタは、息子たちが復讐をするのではないかと恐れたが、2人はまもなく病気で亡くなった。
一人になったリタは、若いときに希望していたアウグスチノ会に入会しようとしたが、夫の事件の関係で拒否された。しかし、神からの招きを確信して祈り続けたリタは、政党間に和平が実現したことにより入会を許された。リタは妻として、母として、未亡人として、修道者として、愛に根ざした平和を人びとにもたらした。
夫との長く苦しかった生活は、リタに不和をおさめる方法を学ばせた。家庭内に問題のあるところでは彼女の忠告が喜ばれ、そのとおりにすると必ず幸福が帰ってきた。60歳のある日、リタが十字架像の前で祈っているときに、キリストの茨の冠から額に一本のとげを受けた。またリタは、「望みのないときの助け手」と言われている。
生涯の最後の4年間は寝たきりとなったが、忍耐と明るい性格によって、姉妹たちと訪れる人びとを支え、1457年5月22日、76年の生涯を閉じた。
23日 福者ヨハネ・バプチスタ(マカド)と聖ペトロ(被昇天)司祭殉教者
17世紀初め
2人は、日本のキリシタン迫害時代の殉教者である。
ヨハネ司祭は、ポルトガルの貴族の家に生まれた。11歳のときに、日本での殉教者の話を聞いて感動し、司祭を志した。イエズス会に入り、1609年に来日し宣教活動をする。当時日本は、家康による禁教令下にあった。彼は、宣教をしたために捕えられた。
一方、ペトロ司祭はスペインで生まれ、フランシスコ修道会に入った。1609年に来日し、長崎にある同会の修道院長として宣教に務める。2人とも、投獄され、首をはねられて殉教した。彼らは亡くなったが、信者の数はますます増えていった。
25日 聖マリア・マグダレナ(パッジ)おとめ
1566年-1607年
マグダレナは、イタリアのフィレンツェの名門パッチ家に生まれた。幼いときから愛に満ちあふれ、信仰深く、生涯を神にささげたいと思い、カルメル会の「天使の聖マリア修道院」に入った。マグダレナは、18歳で誓願をたてた後、ますます多くの恵みを神から受けるが、同時に重病にかかったり、精神的苦痛や絶望への誘惑など、多くの耐え難い苦しみも受けた。しかし彼女は「死よりも苦しみを」をモットーにし、祈り続けそれに耐えた。彼女の深い超自然的知識と愛は、会の修道女たちをより高い徳へと導いた。彼女の遺体は腐敗せずに、フィレンツェの近くのカレッチ修道院に眠っている。彼女の肖像画は、胸に燃える心臓を記し、手に茨の冠を持った姿で描かれている。
25日 聖グレゴリオ7世教皇
在位1073年-1085年
イタリア、トスカーナの貧しい家に生まれたヒルデブランドは、小さいころローマに移り、聖マリア修道院で教育を受け、教皇グレゴリオ6世の付き人になった。皇帝ハインリヒ3世から追放された教皇グレゴリオ6世とともにケルンに移り、ロレーヌ地方の教会改革運動にたずさわった。1049年ローマに戻り、その後20年間、改革を目指す歴代教皇の顧問として次第に力をつけていった。1073年、教皇選挙ではなく、民衆の歓呼による異例の形で教皇に選ばれ、グレゴリオ7世となった。そのため、急きょ司祭に叙階されることになった。
教皇になってからは、世俗権力の支配から教会を取りもどすための改革に精力的に取り組んだ。聖職売買を禁止して違反者を処罰し、一般人が司教になることを禁じたが、この処置は各地で重大な対立を引き起こした。司教の任命権は教皇にあるのか皇帝にあるのかという「叙任権闘争」である。
特にドイツでは深刻であった。この特権を手放そうとしなかった皇帝ハインリヒ4世は、聖グレゴリオ7世から非難の手紙を受け取り、自分のいいなりになる司教たちを集めて教会会議を開いて、教皇の廃位を求めた。これに対して教皇は皇帝を破門し、皇帝権力の行使を禁じた。皇帝はイタリアのカノッサ城に出向き、教皇のゆるしを求めた。これが「カノッサの屈辱」である。しかし、皇帝はドイツに戻るとすぐ対立教皇を立ててローマに進軍し、その後2年間ローマを占領した。教皇はノルマン人によって救出され、ノルマン軍の保護を受けながら、南イタリアのサレルノで亡くなった。こうして、教皇権と皇帝権の解決は次の時代に持ち越された。
25日 聖ベダ司祭教会博士
672年ー735年
ベダはイギリス、タイナンドウェア州にある、ジャローという町に生まれた。この町にある、聖ペトロ・聖パウロ修道院の近くで育ち、修道士のベネディクト・ビスコップとチェオフィリドからギリシャ語、ラテン語、詩などを学んだ。その後、修道院に入った彼は30歳のときに司祭に叙階され、数回外出する以外は、生涯をほとんど修道院で過ごした。
聖書の勉学に献身し、多くの著作を残した彼は、当時の最も博学な人物として、英国文学に大きな影響をもたらした。モーセ五書をはじめとする聖書の研究、神学、科学、歴史書、伝記などの著作がある。最もよく知られているのは、731年の『イングランド教会史』で、イングランドの歴史をつづった現存する最古のものである。このなかで、ベダはキリスト教がイングランドに伝わってから、729年までの歴史を描いている。彼の知恵と教養の深さを称えて、人びとは彼を「尊敬すべきベダ(Beda Venerable)」 と呼んだ。賢明な学者であり、「英国史の父」とも言われている。彼は735年5月25日、ジャローで亡くなった。1899年、教皇レオ13世によって列聖され、教会博士の位に挙げられた。
25日 聖マグダレナ・ソフィア・バラ修道女
1779年-1865年
フランスのブルゴーニュのぶどう栽培の家に生まれた。当時フランスは革命の中にあり、自由・平等の気運が高まっていたので、神学生であった兄は、ソフィアの宗教教育に力を注いだ。兄は司祭になると彼女をパリヘ呼び、神学と哲学の勉強をさせた。そのころ、フランスの司祭のグループが女子教育のために修道女会を設立したいと望んでおり、その指導者であったヴァラン神父がソフィアと3人の仲間を受け入れ、1825年に「聖心会」が誕生した。ソフィアは、亡くなるまでの60年間、会の支えとなって活躍した。
彼女は、女子教育をとおしてイエスのみ心の愛を世に広めることに生涯をささげた。聖心会は、欧州各国、アメリカ、東洋にまで発展し、日本には1907年に渡来。札幌、東京、裾野(静岡県)、名古屋、宝塚などで聖心女子学院、聖心女子大学を経営したり地域のために働いたり、祈りと教育と宣教の生活に励んでいる。
「不完全な霊魂にとっては危険で困難な仕事でも、神を愛する人びとにとっては大きな収穫をもたらすものである」 (聖マグダレナ・ソフィア)
26日 聖フィリポ・ネリ司祭
1515年-1595年
フィリポは、イタリアのフィレンツェの信仰厚い家庭に生まれた。8歳のときに、ナポリの裕福なおじの養子となるが、清貧の生活にあこがれ、一切を捨てローマに行く。そこで16年間、貴族の家で家庭教師を務める。彼は祈りの人であり、明るく寛大で、その人柄は人びとを惹きつけ罪人を回心させたといわれる。
特に、子どもたちのよき遊び相手、導き手であった。33歳のときに、病人の看護にあたる「聖三位一体信心会」を作り奉仕に努めた。その後司祭になる勉強を始め、36歳で司祭になる。信徒とともに祈り、対話し、読書や聖歌の合唱をした。これが後に「オラトリオ」(祈りの家)という修道会となった。この会は、聖職者の養成、青少年の教育、霊的指導、教会音楽に大きな貢献をした。
ゲーテがフィリポのことを「ユーモアのある聖人」と言ったように、彼の生涯は、喜びを他の人に分け与えた生涯であった。
「喜びに満ちた心は、悲しみに沈んだ心よりも、もっと容易に完全になる」(聖フィリポ・ネリ)
27日 聖アウグスチヌス(カンタベリー)司教
?-607年
5世紀の中ごろ、イングランドにアングロ・サクソン民族が渡ってきたので、キリスト教はほとんど消滅していた。時の教皇、グレゴリウス1世は、アングロ・サクソン民族をキリスト教化しようとし、親友であったベネディクト会士アウグスチティヌスを宣教師としてイングランドに派遣した。アウグスティヌスは、40名のベネディクト会士を伴ってイングランドに渡り、首都カンタベリーを拠点に、熱心に宣教活動を行った。その結果、国王をはじめ、貴族、一般市民など、数千人が洗礼を受けた。後に彼はカンタベリーの大司教に任命され、多くの功績を残した。
28日 聖ジェルマノ司教
496年-576年
フランス生まれのジェルマノは、34歳のときに司祭になった。後にパリの司教に任命され、同時に王室の司祭長にもなった。ジェルマノは、高い位についても今までの厳しい生活を続け、あらゆる人びと、特に貧しい人びとを快く迎え入れた。多くの奇跡を起こしたとも言われ、有名な詩人のヴェナンチオ・フォルトゥナートが、ジェルマノの力強く崇高な生涯をほめたたえる書物を著している。
彼の遺体は、パリで最も古く、そして最も大きいサン・ジェルマン・デ・プレ修道院に眠っている。
29日 聖テオドシア殉教者
8世紀中ごろ
テオドシアは、8世紀中ごろのコンスタンティノープルに生まれた。
彼女は高貴な家に生まれたが、若くして両親を失い、コンスタンティノープルにある聖アナスタシア修道院に入った。
当時の皇帝レオはイエス・キリストや聖母、聖人たちの画像破壊を行っていた。テオドシアはそれに反対するため、修道女たちのグループを作った。
そして、テオドシアと修道女たちは、画像破壊を支持する異端者・コンスタンティノープルの大司教の宮殿に投石するために出かけた。しかし、女性たちは捕らえられ、テオドシアは他の12人の女性と共に投獄され拷問にかけられて、殉教したとされている。
30日 聖ジャンヌ・ダルクおとめ
1412年-1431年
「オルレアンの少女」と呼ばれたフランスの国民的英雄であるジャンヌは、ドレミという貧しい農家の娘として生まれた。当時、フランスでは英仏百年戦争が始まり、国内は王族が分裂して危機の状態にあった。ジャンヌは、幼いながらも祖国の危機に心を痛め、毎日祈っていた。
ある日、彼女は「フランスを救え」という神からの啓示を受ける。13歳のときだった。しかし、フランス軍の司令官は彼女の言葉を信じなかったので、フランス軍はオルレアンの近くで敗北するだろう、ということを彼女は予言した。そのとおり、フランス軍は敗北。神学者たちは、ジャンヌが神から啓示を受けたことを認め、彼女はフランス軍を率いる許可を得た。彼女は白い軍服を着て馬にまたがり、イギリス軍に包囲されたオルレアンに進撃して、解放した。第2、第3と勝利を得て、皇太子をシャルル7世として王位につかせた。
しかし1430年、対立していた軍に捕えられ、イギリス軍に引き渡された。宗教裁判にかけられたジャンヌは、魔術によって神を冒とくしたという罪をきせられ火刑の宣告を受けた。燃えさかる炎の中でも、彼女はイエスとマリアのみ名を呼び、息絶えたといわれる。その25年後、教皇カリスト3世によって、宗教裁判のやり直しが命じられ、無罪の判決をうけてジャンヌの名誉は回復された。
31日 聖母マリアの訪問
聖母マリアのエリザベト訪問を記念する日。マリアが、天使から受胎告知を受けたころ、彼女の親族であるエリザベトも懐妊した。エリザベトは、長年子どもができず年老いていたので、マリアはエリザベトの懐妊を聞き、神の偉大な力に驚き賛美し、さっそく山里にあるエリザベトの家を訪ねる。マリアの訪問を喜んだエリザベトは「あなたは女の中で祝福された方です。……わたしの主のお母様がわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう……」と感動した。マリアは、神に感謝して祈った。この祈りが有名な「マニフィカト」である。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。……」
(ルカ 1.46~55)
エリザベトを励まし手伝うマリアの行為は、神と隣人に対する愛の業である。