home> カレンダリオ> 聖人カレンダー> 6月の聖人

聖人カレンダー

6月の聖人

1日 聖ユスチノ殉教者

103年ごろ-165年ごろ

 ユスチノは、パレスチナのネアポリスに生まれた。若いころから哲学の勉強をし、ストア、ピタゴラス、プラトンなど多くの学派の研究を行った。その後、ある老人との出会いによって、聖書を読み祈ることを知り、30歳のときに洗礼を受けた。そして、キリストの教えを最高の哲学、最高の道徳として実践し、模範的な信仰生活をして、小アジアやギリシャの町を遊説した。

 時のローマ皇帝アントニーノのキリスト教徒迫害に際しても、公に信仰を宣言した。そして、彼の書いた護教書がローマの役人から嫌疑をかけられ、ユスチノは逮捕され殉教した。ユスチノによれば、「世界にあるすべての真理はただひとつの源泉、キリストから出ている。キリスト教は、永遠の真理そのものであり、すべての哲学や学問の完成である」。彼は、キリスト教徒最初の偉大な哲学者といわれる。



2日 聖マルチェリノ 聖ペトロ殉教者

?-303年

 ローマ皇帝ディオクレティアヌスの迫害時代に、彼らはキリスト教徒であるという理由だけで捕えられた。ペトロは、獄中で守衛の娘の悪霊を追い出した。このため、守衛の家族はキリスト信者になり、牢獄から信者たちを逃した。しかし、マルチェリノとペトロだけは逃げずに残り、獄中のキリスト信者でない人びとに教えを説いていた。その後2人は、寂しい森の中に連れて行かれ、斬首された。



3日 聖カロロ・ルワンガと同志殉教者

19世紀

 1878年に、アフリカのウガンダに宣教師が入り、宣教を始めた。王国宮廷に仕える人びとも何人かがカトリック信者になった。やがてキリスト教に対する迫害が厳しくなると、宣教師たちは信者の生命を心配し、彼らを巻き込まないために一時帰国した。しかし、国王の侍従ヨセフ・ムサカを中心に、マチア・ルムンバやカロロ・ルワンガの指導によって信仰が守られ、信者も増えた。

 国王が亡くなって、その息子ムワンガが王となり、キリスト信者を重要な地位につけるなどして、初めはキリスト教に好意的であった。そのため、宣教師も再び戻り宣教を開始する。しかし、王が悪い習慣にのめり込んでゆくのに乗じ、キリスト教を敵視していた王の宰相カテキロがざんげんしたため、王の迫害が始まった。英国聖公会の宣教師を殺すように命じた王に反対したヨセフが処刑されたことに始まり、次々とキリスト信者たちが処刑されていった。ほとんどが、10代から20代の、まだ洗礼を受けて間もない若者であった。彼らは、祈りながら帰天したといわれる。カトリック教会と英国聖公会の信者100人以上の殉教者を出した迫害は、1885-1887年まで続いた。



3日 聖クロティルジス皇后

450年ごろ-545年

 クロティルジスは5世紀の中ころ、ゲルマン民族の大移動の波で、バルト海沿岸から今のフランス東南部に移住したブルグンド族の王家に生まれた。彼女の母は熱心なカトリック信者で、クロティルジスの信仰教育をよく行った。クロティルジスは、フランク族の王クロヴィスと結婚。信仰深い彼女の影響によって、王はランスの司教聖レミギウスの指導のもとに496年のクリスマスに洗礼を受け、改宗した。そして王は、小国を統一してメロヴィング朝を建て、教会の忠実な保護者となった。この王の名声のかたわらで、彼女は王子たちを教育し、貧しい人びとを助け、王に聖堂の建築を勧めるなど、力を尽くした。



4日 聖フランシスコ・カラチョロ司祭

1563年-1608年

 フランシスコ・カラチョロは、ナポリ王国の貴族の家に生まれ、信仰心あつく育った。22歳のときに、ハンセン病にかかり、苦しんだ彼は、「もし、この病が治ったら、わたしは生涯神に身をささげます」との祈りをしたといわれる。不思議にも病気が完治した彼は、財産を貧しい人びとに与え、ナポリで神学の勉強を始めた。司祭になると、祈りと黙想に励み、あらゆる人びとを慰めた。

 あるとき、ヨハネ・アドルノという司祭から、厳しい生活をしながら司牧に従事する司祭の会を始めたい、との手紙が間違って彼のもとに届けられた。宛先が間違った手紙であったが、その内容に共鳴した彼は、神の摂理を感じてアドルノの仲間に加わった。同士が12人になると、ローマに行って修道会としての認可を得、1588年、「小さき聖職者修道会」が創立された。アドルノが亡くなると、彼は総長に選ばれ、会員を導き修道会の発展に力を注いだ。彼の最後の言葉は、「さあ、天国に行きましょう!」であった。



5日 聖ボニファチオ司教殉教者

672年ごろ-754年

 イギリスのクレイトンの貴族の家に生まれ、修道院の付属の学校で教育を受けた。ベネディクト会の修道院に入り、宣教師としてフリースランド(オランダ)、さらにドイツの宣教活動に専念した。

 722年に、教皇グレゴリオ2世からドイツの司教として叙階され、皇帝シャルル・マルテルの保護のもとに目覚ましい活動を続けた。ゲルマン人は、ガイスマーにある巨大な樫の木に「雷神トール」が宿っていると信じ、礼拝していた。そのため、ボニファチオはその木を切り倒し、人びとを迷信からさまし、多くの人が、キリスト信者になったといわれる。

 ボニファチオは、世俗化した教会を改革し、チューリンゲンやヘッセンに修道院を建てた。なかでもフルダ修道院はドイツの宗教、学問、芸術などの文化活動の中心となった。のちにフリースランド宣教の途中に、異教徒に襲われ殉教した。ボニファチオは、西欧文化発達の基礎を築き、ドイツの使徒として知られている。



6日 聖ノルベルト司教

1080年-1134年

 ノルベルトは、ドイツのゲンネブの裕福な貴族の家に生まれ、若いころは皇帝ハインリッヒ5世のもとで、世の楽しみに浸る生活を送っていた。25歳のとき、馬に乗って郊外に出かけたところ、突然の激しい雷雨に打たれた。そのとき、「悪事をやめて、よいことをしなさい。平和を探し求めて、それに従いなさい」とのキリストの声を聞いたのである。その瞬間から彼は回心し、宮廷を去り、修道院に入った。

 1115年に司祭になると、説教師として宣教活動に従事するが、彼の過去を知る者は彼を信用せず、偽善者として告訴までした。しかし彼はそのことにも耐え、ついに、教皇からフランスのどこででも説教を自由にする許可を得て、当時に最も有名な説教家となった。

 1120年、プレモントレ修道会を創立した。その会は、聖体に対する尊敬と信心を広めることによって世の罪を贖うことを使命とした。その後、マグデブルクの大司教となり、生涯を神の道具としてささげたのである。



7日 聖メリアドク司教

6世紀年ごろ

 メリアドクは、イギリスのウェールズの裕福な家に生まれ、育った。自分の財産をすべて貧しい司祭たちに施し、土地は困っている人たちに与えた。彼の評判は高まったが、ますます世間から離れ、隠退したいと思い、自らは徹底した清貧の生活を送った。ヴァンヌの司教に選出された後も、厳しい生活を続けた。

 メリアドクは、「貧しさは気苦労を取り除き、聖性の母となる」という言葉を生涯、身をもって実践したのだった。彼は、イギリスのコーンウォールと北フランスで尊敬されている。特にコーンウォールでは、彼の偉大な業を伝えた奇跡劇が現在も残っている。またブリタニーのある所には、彼が使ったとされるベルがあり、口の不自由な人や、頭痛で悩む人の上に置くと治る、といわれている。



8日 福者アンナ・タイギ

1769年-1836年

 アンナは、イタリアのシエナの信仰深い家庭に生まれた。学校には行かなかったが、教理などすべてのことを自ら学んでいった。彼女は、家計を助けるために家政婦として働いていた邸宅で雇われて働いていた男性と結婚した。生活は苦しかったが、7人の子どもを育てながら、病人や貧しい人たちの世話をした。病気がちな彼女であったが、その苦しみに耐え、人前では笑顔を絶やさず、いつも「み旨がおこなわれますように」と心のなかで唱えていたといわれる。

 アンナは予言する力をいただき、ナポレオンの失墜や追放された教皇ピオ7世のイタリアへの帰還などを予言した。彼女の名声は各地に広まり、あらゆる階級の人びとが、彼女の意見を求めに訪れた。



9日 聖エフレム助祭教会博士

306年ごろ-373年

 エフレムは、シリア東部のニシビスに生まれた。子どものころからキリスト教の教育を受けたが、神の摂理に疑いをもっていた。しかしある事件を機に、回心して荒野で隠修士の生活を始め、祈りと聖書研究に専心した。

 当時教会は、アリウス派による異端が広まっていたため、325年にニケア公会議が召集された。その公会議に同行したエフレムは多くのことを学び、エデッサに行った。そこでは、異端説が広まり、歌までつくられ、人びとが歌っていた。これに対して彼は、イエスのこと、聖母のこと、祝日のことを美しい詩歌にし、聖歌合唱隊を作って歌わせた。これは人びとの心を感動させ、誰もが彼の歌を口ずさむまでになった。彼は、雄弁家でもあり、説教をして回り、貧しい人びとを助けた。またペストが流行したときには、献身的にその看護にあたった。また聖書の註解書や聖母マリアの詩などを著わした。エフレムは、キリスト教会ではじめて賛歌を作った人物として知られ、「聖霊の竪琴」とも呼ばれている。



10日 聖ランドリー(パリ)司教

7世紀

 ランドリーは、650年に、パリの司教に任命された。当時、パリ市内の貧しい人びとや病人は、治療を受けることも、また入院するための病院すら十分になかった。この状況を見て、ランドリーは、司教座聖堂の傍らに大きな病院を建てた。この病院の名は、「オテル・デュイ」という名に変えられ、今日でもノートルダム大聖堂の北に近代的病院となって建っている。



11日 聖バルナバ使徒

1世紀年ごろ

 バルナバは、キリストの時代に、キプロス島に生まれた。青年時代、エルサレムに遊学したときに、キリストの説教を聞き、感動して72人の弟子に加わったといわれる。使徒から「慰めの息子」という意味の、バルナバという名で呼ばれる。初代教会の信者は、財産を共有しており、彼も自分の土地を売って、代金を使徒たちのもとにもってきた。

 教会のかつての迫害者パウロがエルサレムに来たとき、バルナバは信者たちに勧めて、パウロを暖かく受け入れさせた。その後、2人でキリスト教の最初の宣教旅行に出かけ、キプロス島で多くの人びとに洗礼を授け、また、小アジアでも熱心に宣教した。パウロと別れた後、バルナバはキプロス島で活躍し、そこで殉教した。キプロス教会の最初の創立者として尊敬されている。決断力と勇気のあった人物であり、その協調性と柔和さで、初代教会の発展に貢献した。



11日 聖女マルガリータ(スコットランド)

1045年-1093年

 マルガリータは、1045年英国の王聖エドワードを父として生まれた。幼いころから信心深く、人の苦しみを理解し、たえず祈りながら自分よりももっと不幸な人を見舞ったりしていた。マルコム3世の王妃になってからも、貧しい人びとに奉仕し、善行をつんだ。夫も感化され、慈善事業の資金や病院の設立に援助した。国の母として国民に慕われ、聖堂を多数建立したり、国内に工場を設け、仕事を国民に与え、対外的には隣国と平和を保つように配慮した。1093年天国へ旅だった。



12日 聖ヨハネ(サハグン)司祭

1419年-1479年

 ヨハネは、南スペインのサハグンに生まれた。ベネディクト会の学校で教育を受け、司祭となった。その後、サラマンカ大学で神学を学び、聖セバスティアノ教会の助任司祭に任命された。

 そのころ、サラマンカの貴族の青年は2派に分かれ争っており、町の市民までもが、両派に分かれて争いを繰り返すようになっていった。ヨハネは、復讐し合って互いに傷つけ合うことは、兄弟愛、しかもキリストの教える愛に背くことであると強調して、必死に調停に努めた。その姿に人びとも心を打たれ、和解に至った。そのためヨハネは、「平和の天使」とか「サラマンカ市の救い主」と呼ばれ、人びとから尊敬された。45歳のとき、財産を貧しい人に与えて、アウグスチノ修道院に入り、そこで生涯を終えた。



13日 聖アントニオ(パドバ)司祭教会博士

1195年-1231年

パドバの聖アントニオ

 ポルトガルのリスボンに生まれた。15歳のときにアウグスチノ会に入り、司祭となったが、アフリカ宣教の望みを抱き、長上の許可を得てフランシスコ会に入る。殉教の覚悟でアフリカのモロッコに渡ったが、まもなく病気になり、帰国した。その後、フォル市郊外のモンテ・パオロで、修道司祭として生活した。あるとき、市の新司祭の祝賀会の席上、アントニオは長上から即座に演説を命じられ、よい話をした。これを機に説教家として彼の才能が認められた。イタリアやフランスを巡って福音を伝え、多くの人びとを回心に導いた。

 36歳の若さで亡くなり、その遺骸はパドバの聖堂に安置された。その墓で多くの奇跡が起こったといわれている。

 アントニオは、紛失物を捜すときの助け手、婚姻・花嫁の守護の聖人として知られている。
  「毎日が、あたかも最初の日であるかのように思って行動しなさい。
   そして、あなたが始めた最初の日と同じ熱意をもって、
   常に行動しなさい」(聖アントニオ)



14日 聖メトディオ・コンスタンティノープル総大司教

788年-847年

 メトディオは、シラクサで生まれ、若いときに皇帝に仕えようとしてコンスタンティノープルに行った。そこでのある修道士との出会いが、彼を回心に導いた。彼は、この世的なことから退く決心をし、修道院を建てて一生をささげるつもりであった。

 その時代は、東方教会の人びとの間で、イエスや諸聖人の絵画を破棄する運動が起こり、混乱していたので、コンスタンティノープルの総大司教はメトディオを呼んで、イコンを破壊する人びとに2人で反対した。そのため、総大司教は追放され、その後、メトディオも追放されて、獄中生活を余儀なくされた。

 皇帝が死去し、イコンを支持する皇后が国を統治するようになってからは、状況が好転した。843年に、メトディオはコンスタンティノープルの総大司教になり、イコンの正当性を宣言。東方教会では、毎年「正当信仰の祝日」が祝われて、この勝利を記念している。



15日 聖ヴィト殉教者

?-303年ごろ

 ヴィトは、皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害時代に、シチリアで生まれた。7歳のころ、洗礼を受けキリスト信者になった。

 彼の信心深さと奇跡を行ったことがローマの役人の目に止まり、多くの刑罰に処せられ、信仰を捨てるように強いられた。しかしそのたびに、奇跡が起こった。例えば、飢えたライオンの前に投げられたとき、ライオンが、ヴィトをやさしくなめたといわれる。

 彼の遺物には、病気を治す力があり、特にてんかんで苦しむ病人がその前で祈ると治ったそうである。そのため、彼はてんかん患者やコーリア病(舞踏病)の守護の聖人と呼ばれる。またダンサーや俳優の守護の聖人としても知られている。



16日 聖ルトガルディス修道女

1182年-1246年

 ルトガルディスは、ベルギーのトングル市の貿易商の家に生まれた。ある青年と婚約したが、父の事業が失敗したため持参金が用意できず、破談となってしまった。そのことで傷ついた彼女は、母の勧めるままに、修道院に入って神だけを求める生活をしようと決心した。

 祈っていると、イエスからの招きを受け、18歳でベネディクト会修道院に入り、そこで院長の職を果たすまでになった。しかし、さらに厳しい生活を求め、シトー会修道院に転じた。29歳のとき、キリストの胸を貫いた槍の傷の聖痕を受けた。晩年は、目が不自由になったが、その苦しみをキリストにささげて生きた。



17日 聖フランシスコ・レジス司祭

1597年-1640年

 レジスは、フランスのフォンクーヴェルト村の貴族の家に生まれた。イエズス会の学校に入り、18歳のときイエズス会に入った。33歳で司祭となるまで、勉学・修行に専心した。その後、フランスに巡回説教師として派遣され、ソンミエール、ル・ピュイでも活動した。

 彼の説教は、とても分かりやすく、多くの人びとに感動を与えた。寝食も忘れるほど人びとのために献身しそして祈り、人びとを信仰へ導いていった。特に、貧しい人や娼婦の更生のために力を注ぎ、彼らのために施設を建てた。



18日 聖グレゴリオ・バルバリゴ司教

1625年-1697年

 グレゴリオは、イタリアのヴェネチアに生まれた。その時代、ヨーロッパのカトリックとプロテスタントの間で戦いがあり、1648年のウェストファリア条約が調印されるまで、戦争は30年続いた。彼は20代であったが、ヴェネチアの人びとに選ばれ、大使とともにその会議に出席した。教皇代理のファビオ・キジは、グレゴリオが特別に優れていることを認め、親しくなった。そしてファビオが教皇になったとき、グレゴリオをベルガモの司教に任命し、その後枢機卿として選び、1664年には、パドバの司教に任命した。

 グレゴリオは、司祭養成の方法を改善することに力を尽くし、大学や図書館を創設し、優秀な教師を任命するなどした。



19日 聖ロムアルド修道院長者

952年-1027年

 イタリアのラヴェンナの貴族の家庭に生まれたロムアルドは、何不自由なく暮らしていた。しかし、彼が20歳のころ、父親が反対派の市民と争い、相手を殺した事件によって、状況が一変した。ロムアルドは、市外のベネディクト会の修道院へ逃げ、今までの自分の価値観が誤っていたことに気付き、心を改めて修道士となった。

 3年後、彼は、厳しい修行をしているマリヌスという隠修士の弟子となった。ロムアルドは祈りと修行に励み、彼の徳の高さは人びとの知るところとなり、時の皇帝を始め、各界の名士たちまでが教えを受けに行った。しかし、彼はますますこの世的なことから離れ、イタリアの各地を巡回し、古い修道院の改革を行い、また新しい修道院を創立した。その中でも有名なのが、1023年にカマルドリに建てられた修道院であった。そこは、ベネディクト会会則に基づいた新しい修道会「カマルドリ会」の中心となった。



20日 聖シルヴェリオ教皇殉教者

?-537年(在位536年-537年)

 聖シルヴェリオ教皇は、聖ホルミスダス教皇(在位514年~523年)が司祭に叙階される前に、結婚していたときの息子である。聖アガペト1世教皇の死後、シルヴェリオは当時助祭であったが、東ゴート王国、テオダハド王の支持を受け、教皇に選ばれた。

 シルヴェリオは、キリストの人間性を認めない「単性説」を唱えたコンスタンティノープル総主教、アンティモスを退けた。東ローマ帝国の皇后テオドラはアンティモスを支持していたので、彼の復帰を訴えた。しかしシルヴェリオは聞き入れず、正当信仰を擁護した。怒ったテオドラの策略によって、シルヴェリオはヴェントテーネに流され、ヴィジリオが教皇となった。後に、皇帝ユスティアヌス1世によってローマに戻ることになったが、東ローマ帝国の軍司令官ベリサリオスに阻止された。その後教皇位を剥奪されて、パルマローラ島に流され、538年、同地で餓えのために亡くなった。イタリア、ポンツァ島の保護の聖人である。



21日 聖アロイジオ・ゴンザガ修道士

1568年-1591年

聖アロイジオ・ゴンザガ修道士

 アロイジオは、イタリアのカスチリオネのゴンザガ侯爵の長男として生まれた。父の望みで軍人になるはずであったが、彼は当時の社会の不道徳を嫌い、修道者になろうと決心していた。父は、それに大反対をし、9歳のアロイジオをフィレンツェのメディチ家に預け、その後マドリッドのフィリポ2世に3年間仕えさせた。しかし、修道者になるというアロイジオの固い決心は変わらず、ついに父も願いを聞き入れ、1585年に、イエズス会に入会することを許した。

 アロイジオは、自分自身に厳しく、信仰を深めることに努め、目上が派遣するどんな所でも忠実に働いた。1591年、ローマにペストが流行したとき、献身的に病人の看護にあたったが、自らもペストに感染し、24歳の若さで亡くなった。彼は、青少年の守護の聖人といわれる。



22日 聖ヨハネ・フィッシャー司教殉教者

1469年-1535年

 ヨハネは、イギリス、ヨークシャーのビヴァリーに生まれた。ケンブリッジ大学で学び、司祭になってからは母校で神学を教え、1504年に同大学の総長となった。彼は、高い理想のもち主であり、有名な人文学者エラスムスの友人であった。人望厚いヨハネは、国王ヘンリー7世からロチェスター司教に任ぜられ、また宮中の顧問にも任命された。しかし次の王ヘンリー8世は、初めのころは信仰深かったが、皇后との離婚問題をきっかけに、教皇権を排除するなど、自らが教会の頭になることを主張した。それに反対したヨハネは、国王に逆らったということで捕えられ、処刑された。そのとき彼は、「わたしは誰の良心も非難しない。彼らの良心は彼らを救うであろう。そしてわたしの良心はわたしを救わなければならない」と言って殉教したといわれる。



22日 聖トマス・モア殉教者

1477年-1535年

聖トマス・モア

 トマスは、ロンドンに生まれ、オックスフォード大学で法律学を学び、弁護士となった。ヘンリー8世の時代、英国の宰相に任命された。離婚問題を起こした国王が、英国教会の首長の地位につくことを主張したため、トマスはそれに反対の姿勢をとった。このため、彼はロンドン塔の獄舎に15ヵ月間監禁された。そして、友人ヨハネ・フィッシャー司教の処刑後9日目に死刑の宣告を受けた。「わたしは、まず神の忠実なしもべとして、それから国王の忠実なしもべとして死んでいきます」という言葉を残して殉教した。彼は、弁護士の守護の聖人として知られている。



22日 聖パウリノ(ノラ)司教

354年ごろ-431年

 パウリノは、フランス、ボルドーの裕福な家庭に生まれた。父親はイタリア、スペインに土地を持つ、ガリア地方長官だった。詩人のアウソニウス(310-393年)から教育を受け、後にパウリノは法律家となった。その後ヨーロッパを旅し、スペイン人のテラシア(Therasia)と結婚した。2人は、数年間裕福な生活を過ごし、洗礼を受け、キリスト信者になった。

 長い間子どもに恵まれず、やっと生まれた男の子も、生後1週間で亡くなった。彼らは、質素な生活をし、財産のほとんどを貧しい人や教会に寄付した。

 パウリノの模範的で愛徳に満ちた生活は評判となり、彼は当時助祭でなかったにもかかわらず、バルセロナの司教から司祭に叙階された。

 フランスの土地を売ってナポリの近くにあるノラに移った彼は、水路を作り、フォンディに教会を建てた。また自分の住む家の一階を巡礼者や貧しい人びとのために提供し、彼自身は二階で友人たちと半観想的な生活をし、妻のテラシアがこの小さな共同体の雑務を行った。彼の友人には、アンブロジオ(340年ごろ-397年)、ヒッポのアウグスティヌ(354-430年)、ヒエロニムス(340-420年)がいた。迫害時に鞭打ちを受け、その後は奇跡の業を行ったノラのフェリックス(311年ごろ死去)に信心があり、彼の遺体はパウリノの家の近くに埋葬された。

 パウリノは409年に司教に選ばれたが、具体的にどのように司牧していったかは、記録に残っていない。
 彼の最後も、貧しい人びとにささげられたものだった。431年6月22日、ミサを2人の司教とささげた後、貧しい人に最後の施しとして銀50枚を渡し、その日の晩の祈りのときに息を引き取った。

 彼の遺骨はローマに移され、1909年、ピオ5世のときノラに戻された。



23日 聖エテルドレダ

630年-679年

 エテルドレダは、ノーサンブリアのアンナ王の王女として生まれた。15歳のとき結婚するが、夫に先立たれ、すぐ政略のために再婚させられた。しかし、かねてから彼女は修道生活をしたいという望みをもち続けていたので、夫婦生活もないまま、純潔を守りとおし、とうとう12年目に夫からも理解されて結婚が無効とされた。

 672年に、エテルドレダはエテエリ島に女子と男子の修道院を創立し、院長として2つの修道院を治めた。修道女となってからは貧しさに徹し、つつましい衣服を着け、病気のときを除いては、日に1度だけの食事をした。

 彼女が亡くなったとき、一時の虚栄心の償いのしるしとしてできたといわれる首の腫瘍が、没後16年たって、棺を開いたときにはすっかり治っていたと伝えられる。そのため、エテルドレダは、のどや首の病気で苦しむ人びとの守護の聖人として知られ、イギリスでも有名な聖人として親しまれ、聖オードレーとも呼ばれている。



24日 洗礼者聖ヨハネの誕生

1世紀

洗礼者聖ヨハネの誕生

 ヨハネは、キリストに先立つ荒野の預言者といわれる。  聖母マリアのいとこエリザベトは、エルサレム神殿の祭司ザカリアと結婚するが、子どもに恵まれなかった。あるとき、ザカリアは天使から、男の子が授かるだろうと言われた。年をとっていたが、エリザベトはみごもって男の子を産み、その子をヨハネと名付けた。

 ヨハネは、らくだの毛衣をまとい、腰に皮帯をしめて荒野に行き、いなごと野蜜を食べて暮らしながら、イエスの到来に備えて人びとを改心させるために、教えを宣べていた。多くの人びとが、ヨハネに罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けた。イエスも、ヨハネから洗礼を受けられた。イエスは、「女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現われなかった」と彼について述べている。ヨハネは、ヘロデ王の悪い行いを戒めたことがもとで捕えられ、処刑された。彼は、「イエスを栄えさせ、自分は姿を消すもの」としての生涯を送ったのであった。



25日 聖プロスペロ(レッジョ)司教

?-466年

 プロスペロは、自分の財産をすべて貧しい人びとに与え、司祭となってキリストの教えに徹底して従った。イタリアのレッジョの司教として22年間務め、市民たちを導き、彼らの父として尊敬されていた。彼は生前に自分が亡くなったときは、レッジョ市の城壁の外の目立たない所に教会を建て、自分の遺骸をそこに埋めるように頼んだ。しかし、市民たちは、プロスペロを市の守護の聖人とし、現在は市の広場近くにある教会に移し記念している。



26日 聖ヨハネ、聖パウロ殉教者

4世紀

 ヨハネとパウロの兄弟は、コンスタンティヌス皇帝の娘コンスタンティナの宮廷に仕えている高官であった。355年、ローマ皇帝として即位したユリアヌスは、キリスト教を捨て、信者たちを厳しく迫害し始めた。2人は、皇帝に仕えることを拒否し、命をかけて信仰を守ることを宣言したため、皇帝の怒りをかい、処刑されることとなった。彼らが人望も厚く、敬愛されていたので皇帝は、公に処刑し、人心を刺激するのを避けるため、ひそかにローマの2人の邸宅に送って、処刑するよう命じた。彼らが殉教してから約35年後、パマチウスという元老院議員が、この邸宅の場所に教会を建てた。

 1887年に、御受難会の修道者たちがこの聖堂を発掘したところ、2人の邸宅がそのままの姿で現われ、壁に描かれた十字架や羊などのキリスト教のシンボルが発見された。



27日 聖チリロ(アレキサンドリア)司教教会博士

?-444年

 エジプトのアレキサンドリアに生まれた。380年にアレキサンドリアの司教となり、412年には、総大司教となった。当時の異説や異教の間違いを論破するために多くの本を著わし、説教をした。特に、当時広まっていたネストリウスの異端に対する反論は、チリロの名を歴史に残すこととなった。ネストリウスは、マリアを神の母「テオトコス」でなく、人間キリストの母「クリストトコス」にすぎないとする異説を広めていた。そのため教皇は、ネストリウスを破門し、問題の解決をチリロに任せた。怒ったネストリウスは、皇帝に適正な判断をしてくれるように訴えた。この調停のために431年にエフェソ公会議が召集され、チリロは教皇代理として出席した。同会議で、ネストリウスの異説は破門され、聖母マリアは神の母であることが決議された。

 しかしチリロは、ネストリウスが皇帝にざんげんしたことによって逮捕され、投獄された。そして釈放された後も、ネストリウスの異端と戦った。チリロは、東ローマ教会の4人の教父の1人とされている。また、彼は「聖母マリアの神学博士」と呼ばれている。



28日 聖イレネオ司教殉教者

135年ごろ-200年ごろ

 イレネオは、小アジア(現在のトルコ)のスミルナに生まれた。若いころ、スミルナの司教ポリカルポに学んだ。ポリカルポは、イエスの使徒聖ヨハネの愛の心と信仰を受け継いでいた。イレネオは、友人に「自分は、ポリカルポの姿と声、そして彼が聖ヨハネから学んだと言った言葉を完全に心に納めている。それは、魂の一部である」と言ったといわれる。

 177年にローマ皇帝マルクス・アウレリウスはキリスト教に対する弾圧命令を出し、リヨン市でも大迫害が起こった。そのためリヨンの司教が殉教し、イレネオがその後を継いで司教となった。彼の努力によってリヨンの教会は盛んになったが、政権の交替によって幾度も迫害を受けた。そして皇帝セプティミス・セヴェルスの時代に、イレネオも信者と共に捕えられて殉教した。



29日 聖ペトロ使徒

1世紀

聖ペトロ使徒

 ペトロは、ゲネサレト湖畔のベトサイダの貧しい漁師ヨナとヨハンナの子として生まれ、弟アンドレと共に漁をしながら信心深い生活を送っていたといわれる。ペトロは、漁をしているとき、イエスから「人をすなどる者にしよう」と言われ、イエスの後に従った。彼の名は、初めはシモンであったが、イエスが「岩」を意味する「ペトロ」という名前をつけられた。のちにイエスから「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなくことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16.18-19)と約束された。復活されたイエスからは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、ローマ教会を導いた。

 67年、皇帝ネロによってキリスト教迫害が始まったとき、信者たちの勧めでローマを脱出しようとしたが、そのとき、十字架を背負ったイエスに出会った。ペトロが「クオ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、どこに行かれるのですか)と尋ねると、イエスは「わたしは、ふたたび十字架につけられるためにローマに行くところだ」と答えられたという。ペトロは、それを聞いて自分の使命を悟り、ローマにすぐに引き返し、進んで十字架に逆さまにつけられて殉教した。ペトロが処刑された場所に、サン・ピエトロ大聖堂が建てられている。

 ペトロは、ローマの司教として33年勤め、その最期をまっとうしたといわれる。後に、ローマの司教は全教会の司教団の頭、つまり教皇としてペトロの使命を受け継いでいくことになった。そのため教皇職は、ペトロの座とも呼ばれている。



29日 聖パウロ使徒

1世紀

聖パウロ使徒

 パウロは、キリストの時代に、小アジアのタルソに生まれ、サウロと呼ばれていた。ユダヤの律法や母国語以外に、ギリシャ語、天幕作りなどを学んだ。エルサレムに遊学し、有名な律法学者ガマリエルから学び、生粋のファリサイ派となっていった。そしてサウロは、イエスの新しい教えが神への冒涜であるとの信念から、徹底的にキリスト教徒を迫害した(使徒言行録 9.4 参照)。

 ところがある日、キリスト教徒を捕らえるためにダマスコに行く途中、突然天から「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞き、地面に倒れた。この復活したイエスとの出会いによって、サウロは回心し、何が信ずべき道であるのかを悟り、「イエス・キリストこそ神の子である」と熱心に宣べ伝え始めた。しかし、イエスの弟子たちもサウロの回心を信じられず、彼は苦しい立場に置かれた。そんなサウロに力を貸したのが、バルナバであり、アンティオキアで共に宣教して、そこに初めて教会を建てた。そのころから、サウロは、パウロと呼ばれるようになった。

 パウロは宣教旅行に3回出かけ、小アジア、ギリシャ、ローマ、コリント、アテネに福音を伝えた。多くの難に遭いながらも、ゆらぐことのない信仰によって、キリストの愛を伝えるために力を注いだ。

 ペトロが殉教したのと同じころ、ネロ皇帝の迫害時代に、ローマで捕えられて殉教した。パウロはイスラエル以外の新しい地の人びとに宣教したことから、「異邦人の使徒」と呼ばれる。新約聖書中にある彼の書いた書簡は、いかにキリストの愛がすばらしいかをわたしたちに伝えている。



30日 聖マルチアリス(リモージュ)司教

3世紀

 3世紀の中ころ、ローマからゴールに7人の宣教師が送られ、各地で熱心に宣教した。マルチアリスもその宣教師たちの一人であった。彼についてはっきりしたことは分からないが、いろいろの言い伝えが残っている。その一つに、マルチリアスが聖ペトロの杖を持ってきて、ローマ地方総督の亡くなった息子に当ててよみがえらせた、という話がある。マルチリアスは、ゴール地方で力強い使徒といわれ、リモージュの司教区を創設した人として尊敬されてきた。リモージュ市は、彼の墓を中心にして大きくなり、彼は初代の使徒たちと並ぶほど敬われた 。現在、リモージュの司教座聖堂の北側には、聖マルチリアスと聖ステファノが並んで描かれた、大きなゴシックの扉がある。



30日 ローマ教会最初の殉教者たち

64年

 64年7月、皇帝ネロの時代に、ローマの町が大火にみまわれた。ネロは、その原因をキリスト者による放火であるとして、彼らをバチカンの丘で処刑した。使徒ペトロとパウロを祝った次の日、教会は、 皇帝ネロによって虐殺されたローマのキリスト者たちを記念する。歴史家キトゥス(120年没)の年代記によると、キリスト者と呼ばれていた人びとはおびただしい数で、彼らはネロの気晴らしのために殺されたという。野獣の毛皮を着せられて犬に引き裂かれたり、夜になると、十字架につけられた者が生きたまま暗闇を照らす松明とされた者もあった。一人の残忍さによって命を絶たれた多くのキリスト者には、多くのローマ市民も同情した。



▲ページのトップへ