聖人カレンダー
12月の聖人
1日 聖エリジオ司教
590年-659年
エリジオは、フランス、リモージュの金銀細工師の家に生まれた。手先が器用であったので、父は息子の素質を伸ばそうと市の造幣局長の弟子に出し、金銀細工を習わせた。
彼はその道で有名になり、フランス国王にも認められ、王座を作るよう依頼された。その後王は、エリジオを国の会計顧問と王立造幣局長に任命した。一方彼は、自分の財産を貧しい人びとに分けるなど憐れみ深い心をもっていた。王から土地を与えられたエリジオは、そこに修道院を建て、時間が許す限り、祈りと黙想を行なった。
628年に王が亡くなると、彼は公職を退き、神学の勉強を始めた。後に司祭となり、ノアヨンからフランダースに及ぶ広い範囲にわたって宣教活動を行なった。また女子修道院を創設したり、青少年の教育にも力を尽くした。
2日 聖ビビアナおとめ殉教者
4世紀
日ごろからキリスト教に反感を抱いていたローマの総督アプロニアヌスは、あるとき、事故で片目を失ったことをキリスト信徒の責任にしようとした。そのため、キリスト信徒であった前の総督フラビアヌスと妻を捕え、財産もすべて没収した。フラビアヌスは顔を焼かれ、妻は斬首の刑を受けた。彼らには、2人の娘ビビアナとデメトリアがおり、困難な中にあっても信仰を守っていた。この様子を知ったアプロニアヌスは、激怒して2人を裁判にかけ、最初に信仰を宣言したデメトリアが死刑に処せられた。ビビアナも棄教するように説得されたが、信仰を守りとおしたために死刑となった。
3日 聖フランシスコ・ザビエル司祭
1506年-1552年
ザビエルは、スペイン、ナバラ地方の貴族の家に生まれた。1526年からパリ大学で学び、そこでイグナチオ・デ・ロヨラと知りあった。イグナチオの考え方に影響を受けフランシスコは、名誉も財産も捨て、キリストに従う生き方をしようとイグナチオの仲間となった。1534年にパリのモンマルトルで誓いを立て、宣教に身をささげるイエズス会を創立した。3年後に司祭となったフランシスコは、イタリアで活躍し、その後1541年にはポルトガル王の要請を受けて、イグナチオからインドに派遣された。
インドでは、気候・風土・習慣などの困難にあいながらも、宣教に尽くし多くの人びとに洗礼を授けた。その後マレーシア、インドネシア、フィリピンなどの島々を巡り宣教した。マラッカで日本人のやじろうと出会い、彼を信仰に導き、1549年、彼とともに日本の鹿児島に渡った。平戸、博多、山口を通って、天皇から宣教の許可を得るために京都に向かったが、会うことができずに山口に戻った。そこで大名の大内義隆より宣教の許可を得、熱心に活動した。その後、日本が中国の仏教の影響を受けていることを知ったフランシスコは、まず中国に渡ることを決意し、1551年に日本を離れインドに戻った。中国に入ろうと努力するが、広東港外の上川島で病気になり、亡くなった。フランシスコの遺体はゴアに移された。
4日 聖シャル・ガルニエ
1606年-1649年
シャルは、パリの裕福な名門の家に生まれた。率直・活発な性質で、友達から尊敬されていた。19歳でイエズス会に入り、1635年、29歳で司祭となった。
先輩のイエズス会員の手紙に刺激されてカナダ宣教を志し、1636年故国を発った。ケベックを経てヒューロン村に着いたとき、村には熱病が蔓延しており、シャルは先輩とともに献身的に看護にあたった。ヒューロンの人びとの信頼を得たシャルは彼らにキリスト教を伝え、受洗者は増えていった。しかし、宣教者やヒューロン人を敵視しているイロクワ人が、ヒューロン村を襲撃するという危険がいつもあった。そこでシャルは、祖国の恩人やフランス政府の援助を受けて「聖マリアの要塞」を築いた。彼はここを根拠地として、ヒューロン湖付近のペトゥン人にも宣教したが、効果はなく追い出されてしまった。
その間も凶暴なイロクワ人はヒューロン村を襲い、ついにペトゥン村にも来襲の危機がやってきた。6年前追い出されたペトゥン村を再び訪れて住民に教えていたシャルは、燃え上がる小屋の中を駆け回って人びとを救い出し、洗礼の水を注いだ。しかし敵の銃弾を受けたシャルは、庭の真ん中に倒れ、こうして信仰の英雄は、43歳で殉教した。
4日 聖ヨハネ(ダマスコ)司祭教会博士
657?年-749年
ヨハネはダマスコの裕福な家庭に生まれた。当時、その地域はイスラム教によって支配されていた。父親はキリスト者だったが、イスラム教徒の支配者の好意を受け、総督の職に就いていた。ヨハネは、シチリア島出身のイタリア人修道士から古典語、神学、科学を学び、その後、父のあとを継いでダマスコ市を治めた。数年後辞職した彼は、716年、エルサレムに近い、サバス修道院に入った。
そのころ東方教会では、レオ3世皇帝によってイコンなどの聖画像は偶像礼拝だとされ、聖画像論争が起こった。ヨハネはイコン擁護の立場を取り、異端者と戦った。また、彼は多くの神学的著作を残し、なかでも哲学、異端、東方教会の信仰について述べた『知識の泉』は有名である。この作品の中で、彼はギリシャ教父たちの教え、三位一体、受肉、聖体におけるイエスの現存、聖母マリアの無原罪、被昇天などについて述べている。また、聖歌の作曲も行った。聖母マリアへの信心に熱心で、マリアの祝日に関する説教を残した。彼は、東方教会の「聖トマス・アクィナス」と呼ばれている。
1890年、教皇レオ13世によって教会博士の位に挙げられた。
5日 聖サバス修道院長
438年-532年
6世紀ごろの修道生活は、隠遁生活であった。
エウティミオという有名な隠遁者が、エリコとエルサレムの間の荒野の洞くつに住んでいると聞きサバスは、18歳のとき彼のところへ行って弟子にしてくれるよう頼んだ。しかし、エウティミオは30歳になったら来るようにと告げた。サバスは聖テオクティトスの修道院で修練を積み、30歳になったとき、エウティミオのもとで生活を始めた。エウティミオはサバスが祈りにだけふけることを許さず、週5日は洞くつで暮らし、週末は修道院に帰るという生活であった。
エウティミオが亡くなると、サバスは4年間荒野で孤独の生活を送り、その後、隠修士たちが時々一緒に集って祈る修道院を創立した。またパレスチナのすべての隠修士の長上に任ぜられた。エルサレムの総主教はサバスのすぐれた知恵を重んじ、度々教会の任務を依頼した。
最も大きいマール・サバ修道院には、今でも正教会の修道士たちが住んでいる。
6日 聖ニコラオ司教
270年-343年
ニコラオは、有名な「サンタ・クロース」の名で知られる聖人である。
小アジアのパタラの財産家の家庭に生まれ、信仰深い両親に育てられて、知恵にも行ないにも優れた人になった。両親が亡くなって、莫大な遺産を相続したが、優しいニコラオはそれを貧しい人びとのために使おうと決心した。
司祭になったニコラオは、エーゲ海に面したミーラで宣教した。ミーラの町の飢饉を何度も救い、また信仰の面でも優れた保護者であった。貧しい靴職人のため娘3人の結婚を援助するなど、人びとを愛し、困っている人を見るとすぐ助けた彼は、人びとに推されて司教になった。
ローマ皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害時代には信徒たちとともに投獄されたが、313年、コンスタンティヌス大帝が信教の自由の勅令を発布したことによって、ニコラオらは釈放された。そして教会の復興にとりかかり、また325年にはニケア公会議に出席し、アリウス派の異端と戦うなど亡くなるまで、教会と人びとのために生涯をささげた。
彼の遺体はミラノ大聖堂に葬られ、そこは巡礼の中心地となった。1087年、東ローマ帝国に侵入したイスラムの破壊から守るため、遺体はイタリアのバリ市に移され大聖堂が建てられた。
12世紀から、ヨーロッパ、とくにスイス、フランス、ドイツ、オランダでは聖ニコラオの祝日である12月6日が子どものための祝日となった。かつてニコラオが助けた3人の娘の話がもとになって、聖人の祝日の前夜、子どもにそっとプレゼントをする習慣が始まったのである。
宗教改革のころから、プロテスタントの地域では、司教服の色である赤色の頭巾と服をつけたおじいさんが贈り物を入れた袋を背負うという形に変え、クリスマスと結びつけた。名前もオランダ語なまりで、「サンタ・クロース」と呼んだ。
酒屋、無実の罪に苦しむ人の保護者である。
7日 聖アンブロジオ司教教会博士
340年-397年
アンブロジオは、ローマ貴族の子として、ドイツのトリエルに生まれた。父の死後、母に連れられてローマに行き、法律を学んだ。373年、ローマ皇帝ヴァレンチニノ1世から、リグリアとエミリア州の長官に任命され、ミラノに赴いた。ミラノの司教が亡くなると人びとは、信者ではないが慈悲深いアンブロジオを司教に選んだ。短期間のうちに受洗し、司祭に叙階され、374年12月7日ミラノ司教に就任した。
アンブロジオは、信者の信仰教育のために、説教壇から熱弁をふるった。洗礼志願者への連続説教、聖書解釈の連続講話、独身の生活に関する説教などが有名である。アンブロジオの温かい人柄と、学識の深さにひかれ、指導を求める人が多くいた。その中には、息子アウグスチヌスのことで相談にくるモニカの姿もあった。
神と人びとのために精根こめて働いたアンブロジオは、397年、57歳で亡くなった。
8日 無原罪の聖マリア
大天使ガブリエルが告げた言葉にもあるように、聖マリアは神の恵みの満ちた方である。また、女性としても、人間としても優しさ、慈悲深さ、忍耐などをそなえた方である。
無原罪の聖母マリアに対する崇敬は、昔からあった。ピオ9世は、1854年12月8日に「聖マリアの無原罪の宿り」を信仰箇条とした。「人類の救い主キリスト・イエスの功績を考慮して、処女マリアは、全能の神の特別な恩恵と特典によって、その懐胎の最初の瞬間において、原罪のすべての汚れから前もって保護されていた」と荘厳に宣言したのである。
1858年3月25日には、フランスのルルドで少女ベルナデッタに聖マリアが現われ「わたしは原罪がなくて宿ったものである」と言われた。
9日 聖ペトロ・フリエ司祭
1565年-1640年
ペトロは、フランス、ロレーヌ地方のミルクールに生まれた。イエズス会の学校で教育を受けた後、1585年にアウグスティヌス修道会の会員となり、4年後に司祭に叙階された。当時、社会はプロテスタントの台頭により混乱の最中にあったため、ペトロはマタンクール村の主任司祭となり信徒たちの司牧にあたった。男子・女子・青少年のための信仰組織の基盤を作るほか、貧しい子どもたちのために無料で教育を受けられる学校の設置などをした。彼の40年間にわたる献身的な地域改革の活動は、多くの人びとから賞された。1623年には女子教育を目的とする「聖母女子修道参事会」を創設し、その精神を受け継いだ学校は現在に至っている。
ペトロは村の改革に尽力したため、「マタンクールの善き牧者」と呼ばれている。
9日 聖ホアン・ディエゴ・クアウトラトアツィン
1474年-1548年
聖ホアン・ディエゴはメキシコのクアウティトランに生まれた。インディオ、アステカ族の農夫であった彼は、50歳のとき、洗礼を受けた。
1531年12月9日、彼が教会へと向かっていたとき、丘の上で聖母マリアが現れた。聖母は「ここに聖堂を建設するよう、司教に伝えてほしい」とディエゴに頼まれた。彼は司教のもとに行き、このことを話した。しかし司教は疑い、「本当にそうなら、天からのしるしをもらうように」と伝えた。
そのころ、ディエゴの叔父であるベルナルディーノが重い病にかかった。彼は、司祭を呼ぼうと、急いで教会に向かった。しかし、丘の近くに来たとき、聖母が現れた。聖母は、叔父の病はいやされると告げ、また丘に登って、花を摘み、司教のところに持って行くように言われた。冬の最中だというのに、丘にはたくさんのバラが咲いており、ディエゴはマントに包んで、司教のところに持って行った。
ディエゴが司教の目の前でマントを開くと、かぐわしい香りとともに、たくさんのバラの花が落ち、マントの表面にはディエゴが見た聖母の姿が描かれていた。奇跡を目の当たりにした司教は、マントの前にひざまずき、信じた。そして、叔父ベルナルディーノの病もいやされた。
聖母が出現した丘には大聖堂が建てられ、聖母は「グアダルペの聖母」として親しまれるようになった。その後、ディエゴは大聖堂の近くに住み、巡礼者たちに聖母出現のことを語り伝え、1548年、74歳のときに亡くなった。
ディエゴは、2002年、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。典礼暦のなかでは、12月12日に「グアダルペの聖母」を記念している。
10日 聖エウラリア(バルセロナ)/聖エウラリア(メリダ)
?-304年/291年ごろ-304年
2人エウラリアは、ともにスペインに生まれ、スペインの有名な殉教者である。両者はしばしば結び付けられ、混同されたために、600年ごろ、スペインの典礼書に一緒に加えられた。それ以来、2人ともメリダで殉教したとされた。スペイン古典文学『エウラリアの歌』によると、エウラリアは幼い子どもでありながら、迫害を受けても死を恐れず、最後まで信仰を守り通して殉教したといわれている。
バルセロナのエウラリアは、コルドバのエウロギウスが1574年に記した聖人伝で、バルセロナの地と結びつけられていることから、バルセロナと船員の守護聖人とされている。メリダのエウラリアをメリダと結びつけたのは、プルーデンティウスとされている。
11日 聖ダマソ1世教皇
在位366年-384年
ダマソは、ローマで生まれた。教皇になるまでの経歴は明らかにされていない。当時教会は、異端者や離教者による混乱の中にあり、教皇対立派も出た。そのため、ダマソは司教選挙を国家権力から自由にする教会法の規定をローマ皇帝に承認させ、ローマ司教の権限を保証する道を開いた。382年のローマ教会会議で、ローマ司教の「使徒座」を定め、三位一体(神は唯一であり、父と子と聖霊という三つの位格がある)の教義に関しても聖アンブロジオと協力して、異端を唱えていたアリウス派と闘い、正統信仰を擁護した。
また、聖書正典問題についても、ダマソの秘書をしていた聖ヒエロニモに、ラテン語訳聖書「ヴルガダ」を出版させた。ダマソは、殉教者に対する崇敬を広め、彼らを賛える詩的碑文を多く残した。
12日 グアダルペの聖母マリア
1531年12月9日、メキシコのグアダルペで、ミサに行く途中だった55歳のファン・ディエゴというインディオに、聖母マリアが現れた。
聖母マリアは、ディエゴに、彼女が出現したこの場所に大聖堂を建設するよう司教に求めるように頼まれた。彼が、このことを司教に話すと、司教は、聖母にそのしるしを残してもらうように言った。12月12日の早朝、再び聖母の出現を受けたディエゴは、聖母にしるしを残してくださるように願った。すると聖母は彼に、バラの花を集めて司教のもとに持って行くように言われた。そこは岩の多い土地で、しかも冬であったためバラなど咲いているはずはなかった。しかし、ディエゴはその言葉に従った。すると、そこには本当に、美しいバラが咲いていた。
ディエゴは、そのバラを折り、着ていた外套に大切に包んで司教のところに持って行った。司教はそのバラを包んだ外套を見て驚いた。その外套には、美しい聖母の姿が写されていたのである。それは、出現された時と同じ姿であった。
現在、聖母が出現された丘には、聖母マリアにささげられた美しい大聖堂が建っている。
1754年、グアダルペの聖母マリアは、教皇ベネディクト14世によってメキシコの保護者とされ12月12日にその祝日が定められた。
13日 聖ルチアおとめ殉教者
?-304年
ルチアは、イタリア、シシリア島シラクサの裕福な家に生まれ、信仰深い両親のもとで育てられた。父の死後、母の健康がすぐれなかったため、母とともにカタニアの聖アガタ(シシリア島の殉教者)の墓に巡礼し、母の病が癒された。この奇跡を機に、ルチアは生涯を神にささげる決意をしてそのことを母に話し、自分の財産を貧しい人びとに与えた。以前ルチアとの縁談があり、彼女に好意を寄せていた青年はそのことを知って怒り、彼女がキリスト教徒であることを知事に訴えた。当時は、ローマ皇帝ディオクレチアヌスのキリスト教迫害下にあり、すぐに彼女は捕えられ、信仰を貫き通したために殺された。
彼女は、多くの人びとから尊敬され、ローマでは早くから彼女の記念祭が行なわれた。彼女の殉教伝は、イギリスの詩人の聖アルドヘルムによって著わされた。
ルチアという名が光と関係があるために、彼女は目の保護者とされている。また、拷問のときに、眼をくりぬかれたと伝えられていることから、彼女は自分の眼を盆の上に載せている姿で描かれている。
14日 聖ヨハネ(十字架の)司祭教会博士
1542年-1591年
ヨハネは、スペイン、アビラの近くで生まれた。21歳のときカルメル修道会に入り、司祭となった。当時カルメル会は世俗主義が入り、創立当初の精神を失っていた。
ヨハネは、1567年に女子カルメル会の改革にあたっていたアビラの聖テレジア(10.15)と出会い、ともに会の改革に力を尽くした。翌年、改革派最初の男子修道院「男子跣足カルメル会」を創設した。1577年に反改革派に捕えられてトレドに幽閉されたが、翌年に脱走し、そのころから詩作と著述を始めた。『カルメル山登攀』、『霊魂の暗夜』は、獄中の体験をもとにして書かれたといわれる。彼は、真の聖性はキリストのために苦しむこと、自分に打ち勝つことであると説いた。その後もヨハネは修道会の改革に奔走し、1581年に教皇の認可を得たが、テレジアの死後、改革派の中でも意見の違いがあり、1591年に役職を解かれ、病の後に亡くなった。
ヨハネは、詩人としても名高く、先に挙げた作品をはじめ、『霊の賛歌』など、スペイン文学史上珠玉の名作と称されている。カトリック教会の最大の神秘家のひとりである。
15日 聖マリア・ディ・ローザ修道女
1813年-1855年
マリアは、イタリア、ブレシアの織物業者の家に生まれ、パウラと名付けられた。17歳のころ、父から縁談をもちかけられるがその話を断わり、病弱だった母の代わりに家事を手伝う一方、父の工場で働く工員、女工員たちを助けた。コレラの大流行の1836年には、病人の看護に励んだ。また、貧しく身寄りのない少女たちが働けるように施設を作り、目や口の不自由な人びとのための学校を設立した。
彼女の献身的な活動は人びとに伝わり、活動に賛同する少女たち15名が加わって、1840年には「愛の奉仕修道女会」が創立された。このときパウラは、マリア・クロチフィッサと改名した。その後も、負傷兵やコレラ流行時の病人看護に大きな貢献をし、その生涯をささげた。
16日 聖アーデルハイト
931年ごろ-999年
アーデルハイトは、フランス、ブルゴーニュのブルグンド王ルドルフの娘として生まれた。937年にイタリア王ロータル2世と結婚したが、不幸にも王は毒殺された。アーデルハイトは、夫を毒殺した者の息子と結婚するよう強要されたが、拒否したために城の中に幽閉された。しかし、951年にドイツの皇帝オットー1世がイタリア遠征に勝利したことで、彼女は解放された。そして彼女はオットー1世と結婚し、962年に皇帝とともに教皇ヨハネ12世から戴冠を受けた。皇帝の死後、息子が地位を継いでオットー2世となるが、彼との間に緊張関係が生じ、アーデルハイトは追放された。しばらくして息子オットー2世は謝罪し、彼女は再び国に戻れることとなったが、彼の死後またもや追放された。しかし、マインツ大司教の援助で、彼女は孫オットー3世の後見人となった。
アーデルハイトは多くの苦しみにあっても、神に対する信頼を決して捨てることはなかった。当時、修道会では改革の波が起こり、クリュニー修道院改革の影響のもとに、彼女も修道院をアルサスに創設し、そこで余生を神のためにささげた。
17日 聖ベガ
?-693年
ベガは、ニベル(現在のベルギーのブラバント)に、フランク王国宰相ピピンの娘として生まれた。父ピピンが亡くなったのち母は修道院をニベルに設立し、ベガの妹ゲルトルーディスも、母がいる修道院に入った。ベガは、聖アルヌルフ(彼は、結婚し子どもが成人した後に、修道院に入り、メスの司教に選ばれた)の息子と結婚して、子どもに恵まれた。彼女の息子は、のちのフランク王国カロリング朝の創始者ピピン3世である。692年、ベガは夫が暗殺されるという不幸に見舞われ、ローマに巡礼に出た。帰国後、ローマの有名な教会を模倣してアンデンヌに、7つの教会と女子修道院を建てた。妹ゲルトルーディスの修道院に依頼して、アンデンヌに修道女を派遣してもらい、彼女らとともに祈りの生活に励んだ。
18日 聖ウィニバルド
701年-761年
ウィニバルドは、イギリスのウェセックスの貴族の家に生まれた。722年に兄ウィリバルドとともにローマや聖地を巡礼したおり、モンテ・カッシーノの修道院に滞在し、そこで修道士となった。兄ウィリバルドは、同修道院再建のためにそこにとどまり、力を尽くした。ウィニバルドはイギリスに戻ったが、ゲルマンで宣教に身をささげていた聖ボニファティウス(ドイツ第1の使徒と呼ばれている)と教皇グレコリウス3世の要請を受け、ゲルマン人への宣教のため738年に派遣された。主にテューリンゲンで活動し、司祭となって7つの教会の司牧にあたった。
一方、兄ウィリバルドも741年からボニファティウスに協力するためにドイツに派遣され、アイヒシュタットの司教に任命された。その後、兄弟は協力して、751年にヴュルテンベルクのハイデンハイムに男子修道院と女子修道院を設立した。そして、イギリスにいる彼らの妹ウァルブルガを女子修道院の院長として呼んだ。
ウィニバルドは、ハイデンハイムの修道院長として会員を導き、宣教に生涯をささげた。
兄弟3人は、ともに神に生涯をささげ、みな聖人とされている。
19日 聖ウルバヌス5世教皇
在位1362年-1370年
ウルバヌスは、1309年に、フランスのグリサに生まれ、ギョーム・ド・グリモールと名付けられた。モンペリエ、トゥールーズ、アヴィニョン、パリの大学で学び、とても優秀な学者となった。その後、ベネディクト会に入り、1352年にサン・ジェルマンの修道院長、1361年にマルセイユのサン・ヴィクトル修道院の院長に任命され、教皇の特使などを経て、教皇に選出され、ウルバヌス5世と名乗った。
ウルバヌスは教皇庁の簡素化を行い、修道生活を重んじた。教皇庁の所在は、過去50年、政治的理由のためにローマからフランスのアヴィニョンに移されていたが、ウルバヌスのときに、皇帝カール4世らの協力を得て1367年にローマに戻すことが実現した。しかし3年後に、ローマの政治的混乱やフランス王、枢機卿の反対によって、ウルバヌスはアヴィニョンに帰らざるをえなくなり、4カ月後に失意のうちに亡くなった。
ウルバヌスは、ヴィーン大学の創立を認可するなど、学問の発展に貢献した。
20日 聖ドミニコ(シラスの)
?-1073年
ドミニコは、スペイン、ナヴァラの農家に生まれた。少年時代は、羊の世話をしながら、教会の典礼、聖書、祈りの本をよく学んだ。その後、かねてからの望みがかない、サン・ミリャン・ド・コゴリャのベネディクト会に入った。ドミニコの学問と徳は深く、修道院長に選ばれた。当時、ナヴァラ王ガルシア3世が、修道院の所有する土地が王家のものであると主張したの対して、ドミニコは修道院の権利を固く守ったため、他の2人の修道士とともに追放処分された。
ドミニコらは、カステリャ王フェルナンド1世の保護を受け、ブルゴス教区のシロスのサン・セバスチャン修道院に招かれた。その修道院は、長い間霊的にも経済的にも活気を失っており、王はドミニコに院長としてその再建をしてくれるよう頼んだ。果たして、修道院は次第に改善され、ドミニコはシロスに写本室を設置し、スペイン初の美しいキリスト教の書籍が生み出されていった。彼の名声はますます高まり、修道生活を志す者たちは後をたたず、多くの寄付金が寄せられた。修道院は修復され広くされて、ドミニコが亡くなった当時、サン・セバスチャン修道院はスペイン最大の修道院の1つとなったほどであった。
彼は、その時代の最も有名な修道者の1人である。
21日 聖ペトロ・カニジオ司祭教会博士
1521年-1597年
ペトロは、当時ドイツ領であったニンヴェーゲン(現在のオランダ)で生まれ、信仰深く育てられた。ケルン大学に入り、初め法律家を志したが、神学の研究に傾倒し、司祭となって生涯を神にささげたいと思うようになった。そのころ、ドイツを訪れたイエズス会員のペトロ・ファーブルと出会って、ペトロは自らの道を見つけ、1543年にイエズス会に入り、ドイツ最初の同会員になった。当時のドイツは、町や人、教会も荒廃するというひどい状態にあり、司祭もおらず、修道者は人びとの軽蔑の対象とすらなっていた。
ペトロは、司祭になった翌1547年にトリエント公会議に出席し、カトリック擁護の立場を強調した。大学で教鞭を取る一方、神学やカトリック要理に関する著作の出版や説教によって、人びとを信仰へと導いた。また、ケルンに最初のイエズス会修道院を設立したり、各地に大学や施設を建てるなど、その地方の教会の刷新に多大なる貢献をした。
ペトロの数多い著作の中では『カトリック小教理問答』は有名で、200版を重ね15か国語に翻訳されている。
彼は、8世紀にドイツにカトリックをもたらした「ドイツ第1の使徒」聖ボニファティウスに並び、「ドイツ第2の使徒」と呼ばれている。
22日 聖フランチェスカ・ザベリオ・カブリーニ修道女
1850年-1917年
フランチェスカは、イタリア、サンタンジェロ・ロディジャーノの農家に生まれ、信仰深く育てられた。
1874年から、当時創立されたある教育修道会に教師をしながら協力したが、1880年に会が解散されたため、フランチェスカは、同年に世界宣教を使命とする「イエズスのみ心の女子宣教会」を創立した。彼女は、同会をミラノとローマに広げ、さらに教皇レオ13世の要望により、1889年イタリア人移民への奉仕のためにアメリカに渡った。アメリカの各地を回り、移民のために多くの学校、施設、病院を作った。彼女は、亡くなるまで人びとのために奉仕し、信仰へと導いた。
フランチェスカは、移民の保護者と呼ばれている。
23日 聖ヨハネ(ケンティ)司祭
1390年-1473年
ヨハネは、ポーランドのケンティに生まれた。1413年からクラクフ大学に学び、卒業後同大学で聖書を教え、1421年から8年間はテンプル騎士団の学校で教鞭を取った。その後クラクフ大学に戻り哲学を教え、神学修士の学位を取得するなど研鑽に励み、哲学と神学の教授として有名になった。学生たちは、彼の導きのもとに大きな影響を受け、高い学位を望む学生はヨハネの残した服を着て成功を祈ったほどだと伝えられている。
ヨハネ自らは清貧に生き、信仰深く、クラクフ街の貧しい人びとに対して寛大な愛を示すなど、彼らの友として知られるようになった。そしてローマには4回にわたり徒歩で、エルサレムには1回、巡礼を行った。
ポーランドの守護聖人として仰がれている。
24日 聖シェーベル・マクルーフ司祭
?-1898年
シェーベルは、熱心なカトリック信徒であり、聖ヨハネ・クリゾストモの友人聖マロの名前をとったマロン教会のグループに属していた。このグループの信徒たちの多くは、レバノンに住み、12世紀から西方教会と一致して、西方教会にキリスト教会の伝統、特に節制の規律をもたらしたといわれる。この伝統を明らかに示したのがシェーベルであった。
19世紀に、彼は他の修道士とともに、初代教会の教父たちが荒野で行った厳しい祈りと修行の生活を続けた。質素な食事と沈黙、祈りの生活によって、ますますシェーベルの心は研ぎ澄まされ、神と人びとを求めていった。23年間の修行の生活を全うし、彼は降誕祭(12.25)の前夜に天に召された。
25日 聖アナスタジアおとめ殉教者
?-304年ごろ
アナスタジアは、ローマの貴族プレテクタトスの娘として生まれた。アナスタジアは結婚したのち、クリュソゴノスの指導のもとにキリスト者となった。ローマ皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教迫害下にあって、彼女は捕えられた人たちを牢獄に訪ね、慰め、力づけた。
しかし、アナスタジアがキリスト者であると分かると即座に捕えられ、シルミウムのイリリクム(現在のユーゴスラビアノミトロウィツ)の法廷で、信仰を捨てるよう命令された。断固として拒否した彼女は、死刑の宣告を受けるが、奇跡的に助かり、他の助かった罪人たちはみな心を改め、キリスト信者になったといわれている。その後、彼女はパルマリア島に送られ、火あぶりの刑を受け、殉教した。
5世紀に、彼女の遺体はコンスタンチノープルに移され、ナジアンゾスのグレゴリオ(カパドキアの3大教父の一人)によって建てられた教会に安置された。この地から聖人を敬う祭儀が広まったといわれ、アナスタジアの名前を付けた教会がローマに建てられた。
26日 聖ステファノ殉教者
?-37年ごろ
キリスト教最初の殉教者といわれるステファノは、ギリシャ語を話すユダヤ人であった。イエス・キリストが昇天されてから数年がたち、キリスト信徒が増えていたころ、ギリシャ語を話すユダヤ人信徒たちから、ヘブライ語を話すユダヤ人信徒に対する苦情がもち上がった。それは、彼らのやもめたちが教会からの配給を十分受けられないということであった。そこで、12使徒(イエス・キリストに選ばれた弟子)たちは、やもめたちへの日常品を配給・監督し、使徒を補佐する7人を選んだ。ステファノはその1人であり、「信仰と聖霊に満ちた人」で、その活動はすばらしいものだった(使徒行録6~7章参照)。
しかしキリスト教に反対する人びとは、ステファノを憎み、彼が神殿を破壊しようとしているという偽りの罪を着せ、告訴して彼を衆議会の裁判に連行した。ステファノは弁明し、イスラエルの救いの歴史に対して人びとが神にしてきた過ち、そして今のイスラエルの人も救い主である神を裏切り、死に至らしめたことを堂々と述べた。それを聞いた議員たちは怒り、ステファノを冒とく者として石打ちの刑にした。その刑に賛同した人びとの中に、後に異邦人の使徒となるサウロ(使徒聖パウロ)がいた。
ステファノは、石打ちに遭いながらも、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言って眠りについた。ステファノという名は、ギリシャ語で「冠」という意味であり、その名にふさわしくキリストの名のために殉教の冠を受けたのであった。
27日 聖ヨハネ使徒福音記者
1世紀ごろ
ヨハネは、イエス・キリストの12使徒の1人であり、使徒ヤコブと兄弟で、ともにゲネサレト湖畔のベトサイダで漁師をしていた。ヨハネは、ヤコブと漁の網を繕っているときにイエスに呼ばれ、彼の弟子となるためにすべてを捨てて、イエスに従った。ヨハネは、イエスから最も愛された弟子の1人とされ、イエスの処刑のときにも十字架のもとに立ち、イエスから彼の母マリアを母として世話するように委ねられた。
その後ヨハネは、エルサレム教会の指導者としてペトロとともに活躍し、パウロが殉教した後にエフェソの司教として小アジア教会を司牧したといわれている。そしてヨハネ福音書と3つの手紙、黙示録を著わした。彼の福音書は、四福音書のうちで最後に著わされた(90~100年ころ)。
ヨハネ福音書の中で、キリストは神でありながら真の人間であることが表現され、友のために涙を流すイエスの姿や、弟子に対する友愛、ヨハネに対する愛などが浮き彫りにされている。ヨハネ福音書の中には、ヨハネの名は出てこないが「イエスの愛された弟子」と表現されている。またヨハネの3つの手紙には、キリストの愛の掟についてあふれるばかりに述べられている。
ヨハネは伝説によれば、その後、ローマ皇帝ドミチアヌスのキリスト教迫害が始まったときに、パトモス島に流され、そこから小アジアのキリスト信者たちに「ヨハネの黙示録」を書き送り、エフェソで亡くなったといわれている。
28日 幼子殉教者
紀元前4年ごろ
イエス・キリストが誕生した当時のイスラエルは、ヘロデ王が国を治めていた。彼は、それまでイスラエルを治めていたハスモン王朝の王女と結婚して王権を握り、自分に反抗する者をつぎつぎに殺す残虐な性格の持ち主であった。イスラエルはローマ帝国の属国であり、ヘロデはローマに追従する一方で、イスラエル人の宗教に対する信仰深さを知り、それを認めて、自分の利益のために豪華な神殿に改修した。また他にも多くの建設事業をしたことは有名である。
あるとき、3人の博士が東方(現在のイラン)からヘロデのもとを訪れ、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねた。ヘロデは自分の他に王位を狙う者が現われたと思い、その者の殺害を実行しようとした。そしてヘロデは、祭司長たちや律法学者たちを集め、ベツレヘムに現われると分かると、「『ユダヤの王』を自分も拝みたいので見つけたら知らせるように」と言って博士たちを送り出した。しかし、博士たちは「ヘロデのところに帰るな」と夢で告げられたので、別の道を通って帰った。ヘロデはそれを知って、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しするように命じた。このときヨセフは、天使のお告げによってイエスとマリアを連れてエジプトに逃れた(マタイ2章 参照)。
おそらく殺された幼子は、20名ぐらいだっただろうと伝えられる。
29日 聖トマス・ベケット司教殉教者
1117/8年-1170年
トマスは、イギリス、ロンドンのノルマン人の商家に生まれた。ロンドン、パリで学んだのち、1141年にカンタベリー大司教テオバルドゥスに見いだされ、彼の片腕となって教会のために貢献した。その後、国王ヘンリー2世の顧問となり、国政の改革に力を尽くした。
大司教が亡くなってから、王は英国教会を王権下に置こうとして、1162年トマスを大司教として選出した。そのころまでトマスは、栄華と名誉を求め王と親交を保っていたが、生活を一変し聖性への道を歩むとともに、教会の権利を王権から守ろうと努めた。そのため王の怒りを買い、フランスに亡命した。時の教皇アレクサンドル3世がトマスの主張を認めたため、王も自らの非を認めて、両者は和解し、1170年にトマスはイギリスに戻った。だが争いは再び起こり、トマスはカンタベリ大聖堂で王の配下によって暗殺された。トマスの死は全ヨーロッパに衝撃を与え、のちに王は彼の墓前で罪を悔い改め、教皇権に従った。
トマスの墓は、巡礼地となっている。
30日 聖メラニア
383年ごろ-438年
メラニアは、ローマに生まれた。祖母は大メラニアであり、エルサレムに女子修道院を設立した聖人であった。
メラニアは、397年に父から強制されて結婚したが、不幸にも2人の子どもを亡くし、夫とともに禁欲生活の道を選んだ。父の死後、莫大な財産を相続したメラニアは、それを貧しい人びとや、教会のため、また多くの奴隷解放のために使った。西ゴート族が襲ってきたときは、夫とともにローマを離れ、アフリカに行き、聖アウグスチヌスと出会ったといわれている。その後エルサレムに住み、431年、夫に先立たれてから、オリーブ山に彼の墓を作ってその近くに小屋を建て、祈りと修行の生活に励んだ。そのうちに彼女のもとに女性たちが集まり、修道院となった。
31日 聖シルベストロ1世教皇
在位314年-335年
シルベストロは、ローマに生まれ、キリスト教迫害時代、教会のために貢献した。長い迫害の時代が終わり、313年に皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認した直後に、シルベストロは第33代の教皇に選ばれた。5世紀の伝説によると、シルベストロは皇帝に洗礼を授けたといわれている。彼は宗教会議を開き、ドナトゥス派を破門し、325年のニケア公会議では、アリウス派の異端を退けた。また皇帝の援助で、ローマにラテラン大聖堂、聖ペトロ大聖堂、聖ラウレンチオ教会などを建てた。