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第2バチカン公会議から50年

「福音宣教推進全国会議」そして「信仰年」

(後編)

岡田 武夫(おかだ たけお)

カトリック東京大司教区大司教

1973年に司祭叙階を受けたわたくしは、1975年よりローマで勉強することになりました。1975年は「聖年」であり、時の教皇は第2ヴァチカン公会議をヨハネス23世から引き継ぎ、終了に導いたパウロ6世でした。

そのパウロ6世は1975年12月8日、非常に重要な教えを発布しました。それは「福音宣教」(現代世界における福音化について)という教えです。通常この教えの冒頭の言葉によって“Evangelii Nuntiandi(エヴァンジェリイ・ヌンティアンディ)”と呼ばれています。

わたくしはこの教えを一読して、パウロ6世教皇の宣教についての教え、とくに宣教の霊性について勉強したいと考えました。

“Evangelii Nundiandi”の内容を表わすキーワーズは「社会・文化の福音化」という言葉です。わかりにくい言葉ですが、「福音化」は英語で言えばevangelizationです。ふつう「福音宣教」と訳されますが。「福音化」と訳すべき用語です。「福音化」とは、社会・文化をより福音の精神にかなったものに変容させる、という意味です。

すると、それでは次に、「社会とは何か」「文化とは何か」「福音とは何か」という問いが出てきます。それだけでも大問題ですのでこの議論はここで止めますが、わたしたちの住んでいる社会、生きている文化を前提として教会の使命である福音宣教を考えましょう、という意味であります。これは明らかに第二ヴァチカン公会議の精神を発展させようとする意図に基づいています。

1987年、日本の司教たちは、第一回福音宣教推進全国会議(NICE-1)を開催しました。これは第2ヴァチカン公会議、さらに「福音宣教」の教えに基づいて、日本における福音宣教を活性化し発展させることを目的にしていました。

開催の前に全国でアンケート調査を行い、「現在の日本のカトリック教会で何が問題あるのか」「何が重要な課題であるのか」と訊ねました。多数の意見が寄せられましたが、そこで指摘されたすべての問題に共通している要素は「遊離」である、と結論しました。そして遊離とは、「信仰が生活から遊離していること」「教会が社会から遊離していること」という分析を行いました。その結果、全国会議の方向を、「生活から信仰を、社会の現実から教会のあり方を見直す」という方向にする、と定めました。この方針に基づいて数々の提案が司教団に提出され、司教たちはそれを受けて「ともに喜びを持って生きよう」というメッセージを発表しました。その中に次のような表現が見られます、
 「信仰を、掟や教義を中心にしたとらえ方から、『生きること、しかも、ともに喜びを持って生きること』を中心としたとらえ方に転換したいと思います」
 「典礼を単なる義務の対象、遵守すべき儀式ではなく、いつもわたしたちとともにいてくださる神と交わり、『ともに生きる喜び』を体験し、分かつ場にしていかなければなりません」

この表現について懸念と疑義を持った人たちがいたと思います。この表現は、教義自体、掟自体、儀式自体を否定するものではありません。「ともに信仰の喜びを生きる」ことの大切さを強調する趣旨です。この真意を改めて確認することが今必要でしょう。

人生は十分に苛烈であり、社会の現実は充分に過酷です。現実に飲み込まれ現実に押しつぶされてしまう人々が数多いのです。世界の現実は、紛争、テロ、種々の暴力、飢餓、疫病、差別、人権侵害、貧困、環境破壊……数えればきりがない悪が蓄積しています。その中で「いかに信仰の喜びを生きるのか」という課題は実に大切です。

二千年の間、キリスト信者は社会の現実を改善するために貢献してきました。しかし反面、戦争や大量殺戮などにかかわり躓きの原因ともなってきました。さらなる「キリストの愛のあかし」が求められています。

過酷な現実の中に埋没せず、未来に向かって希望を持って歩むためには、地上を超えた世界との交わりが必要です。わたしたちは、上から光を、力をいただかない限り、この過酷な現実で無私の愛の行為を行うことはできないでしょう。この光、力は復活した主イエスからいただく恵みです。※

2012年10月11日より「信仰年」が始まります。「信仰年」には第2ヴァチカン公会議と教皇たちの教えのまとめである「カトリック教会のカテキズム』を学ぶよう勧められています。他方、「教え」を学べば信仰が深くなるわけでもない、という声もあります。確かに信仰は理論・神学ではありません。むしろ信仰を説明するために神学がある、と言えましょう。そして信仰は体験です。

しかし昔から「祈りの法は信仰の法」と言います。祈りと信仰は一致しているはずです。わたしたちが「主の祈り」を唱えるときに、何を信じ、何を願っているのでしょうか? 教会はどう教えてきたのか、をこの機会に学ぶことは極めて有益です。

確かに信仰がなければ祈りは無意味です。

神はわたしに何を語りますか? イエスはだれですか? なぜこのようなひどいことが起こるのですか?

かつてこのような問いをわたくしたは持たなかったでしょうか? 今一度この点を各自確かめるときではないでしょうか。

わたくしは、東日本大震災の時に日本の7歳の少女が教皇ベネディクト16世に送った質問を決して忘れることができません。

「どうしてわたしたちはこんなにこわいおもいをしなければならないのですか?」

わたくしはこの問いにすべての人の信仰の原点があるように思う尾です。

「お前の神はどこにいるのか」(詩編42・4、79・10、115・2)と問われたら、わたしたちは何と応えましょうか?

わたしたちが受け取った信仰の理解を表す用語、たとえば「贖罪」「秘跡」などは一般の人になかなか通じません。わたしたちはこの言葉を通して、何を信じているのか、それをどう表し伝えることができるのか、今一度検証する必要があるのではないでしょうか? この課題がわたしたち全員の課題ではないかと思います。


*NICE-1のとぷ真の提案位置に次のようなy表現があったことを想起したい。「教会が生活と社会の現実とその諸問題を把握し、分析し、そこに福音の光を与え、福音の光に基づいた問題解決の指針を、教会と広く社会にも伝達するための機関を充実する」
(下線は筆者。福音の光とは何であるのか、今一度検証の必要がある)


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