曇りのち晴れ、のち嵐、そして……
後藤 文雄(ごとう ふみお)
神言会司祭
天国はありません
一人の外国人宣教師は、老いて死の床の中で悩み続けていた。
「ほんとうに天国はあるのだろうか、私はそこに入って両親に会えるのだろうか」
ある日、後輩の若手の神父が見舞いに来てくれた。思いあまった老神父は彼に質問した。
若い神父はきっぱりと答えた。
「ありません」
老神父の顔に驚きと失望落胆の色がうかんだ。若い神父はもう一度、きっぱり宣言した。
「天国はありません」
若年で、宣教師として両親兄弟姉妹と別れ、故国を捨て、すべてが不自由なこの国で何十年、人々を天国に送り込むために生涯を捧げてきた自分の人生は何だったのか。
老神父が、子供のころに家庭や学校で教えられたのは、よい子は天国へ、悪い子は地獄へ、という公共要理のきまり文句と、大きなパネルに貼られた美しい花園の天国と、目をそむけてしまう地獄絵の恐ろしさであった。それが脅したりすかしたりした宗教教育であった。
絵に描かれた天国は、地上では実現しえなかったパラダイスで、死後愛する家族、友人と睦まじくすごす至福の場所であった。どうみてもこのような世界は、地上の延長でしかなくただの場所である。
神の国はどこに
よき宣教師として公共要理のクラスをいくつか担当し、洗礼をうける人の名を自分のノートに記入し、通し番号をつけて満足し、使命を全うし、静寂な隠退生活を送り、やがて訪れる天国の太平楽を満喫したかった彼を困惑させたのが第二ヴァチカン公会議であった。
若い神父は、公会議の興奮もさめて教会が落ち着いた雰囲気になったころに司祭に叙階されたので「神の国」にはすっかりなれていた。だから子どもじみた「天国」など何のためらいもなく一刀両断で切り捨てられるのである。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)
近づいて来た神の国は、イエスの病人のいやしと貧しい人々に宣べ伝えられた福音によって現実のものとなった。(ルカ17・21)
それ以後、神の国はこの世と共に成長するが、不純な要素も十分に持ち合わせていた。
教会が二千有余年を経てふり返ってみれば、植民地主義者のお先棒をかつぎ、善良な未開社会に暮らす人々を騙したりした不届きな宣教師もいたようだ。しかし、身を挺して原始的生活を営む人々とともに生活し、伝染病、ハンセン病によりそい、自らも感染しながら生涯を終えた宣教師もいた。
それは「よい麦と毒麦のたとえ」(マタイ13・30)などで、教会が玉石混淆の社会であることも教えておられる。神の国の不完全さである。神の国の完成に向かって回心する生きた共同体となるため、教会は新しい時代にたゆまず対応しなければならない。
阿弥陀と踏み絵のキリスト教
私の父は浄土真宗の末寺の僧侶であった。新聞配達と同様に檀家にお経を配達し、お葬式のお布施で家族を養って六十年、といささか自嘲気味に言っていたのが私の脳裏に残っている。朝晩耳にする読経鐘の音は子守唄のように心地よく、二十年間をその中ですごしていた。
1960年司祭に叙階され、教会と学校で働きながら生き甲斐を感じた。しかしそこに至るまでの十年間は、灰色の新学生時代であった。ラテン語授業一念で原書購読はシーザーの「ガリア戦記」である。修練期後の神学講義は、教科書も講義も質疑応答もすべてラテン語である。色あせて黄色に変色したノートをめくる教授の前に、青春の活力は萎え衰え、ついには鬱の状態に落ち込んでしまった。
ようやく司祭として外の世界で働くようになって、水を得た若魚のように活動しまくった。上長との対立と決別も体験しながら青年司祭は有頂天になっていった。
そんなころ、同輩の神父に言われた。
「君の説教を聞いていると、誰でもが救われる阿弥陀のキリスト教じゃないか」
彼は長崎出身でキリシタンの子孫だとうそぶいていた。私は腹立ちまぎれに返答した。
「そうだよ、二十年間も坊主の息子をやってきたのだから。しかし、君のキリスト教は踏み絵のキリスト教じゃないかね」
彼らのご先祖が踏み絵をふんできたから、その子孫が居残っていることを指摘した。一人ひとりのキリスト者が今、ここに在ることだって諸々の要因、出来事が背景のあるのだ。
ねじれてしまった
私の幼少期に苦しい思い出がある。小学校就学直前、箸も鉛筆も右手に持ちかえさせられた。この強制的命令の違反には体罰もあった。以後今日まで、球戯やテニスのラケット以外はすべて右手でこなせるが、体罰を伴った強制のせいか、ねじれて曲がった性格が後遺症として残ってしまった。
そのためか、生涯の仕事として続けているカンボジアの小学校づくりでは、現地の寺の住職とも協力して、寺の境内にも建設した。私のひん曲がった阿弥陀のキリスト教のせいか。
暗雲立ちこめていた教会は、公会議後改正の世界に変わった。しかし、あれから五十年、次々にあらわれた雲や嵐で輝きは褪せてしまった。この五十年は昔の二百年にも匹敵する。時勢に合わないことが多少生じている。軌道修正、方向転換など変えたほうがよいものは、どんどん勇気をもって変えなければならない。
第三公会議は是非ともヨーロッパ以外の第三世界で開催してもらいたいものである。