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第2バチカン公会議から50年

第2バチカン公会議後の教会の中で

吉池 好高(よしいけ よしたか)

カトリック東京教区高円寺教会主任司祭

私たちのカトリック教会は、前教皇ベネディクト十六世の呼びかけを受けて、第2バチカン公会議開幕50周年に当たる2013年度の典礼暦のこの一年を「信仰年」と位置づけています。

この間、私たちのカトリック教会では、ベネディクト十六世の教皇職からの退位と、コンクラーベという古式に則った新教皇の選出が行われました。バチカンを舞台に繰り広げられた教皇職の継承という私たちのカトリック教会にとっての大きな出来事は、前教皇の退位と南米からの新教皇の選出というニュース性もあって、日本のマスコミにも大きく取り上げられました。フランシスコというこれまでにない教皇名を選ばれた新教皇の、前例にとらわれない気さくな人となりが一般にも好意的に受け止められていることは、日本のカトリック信者である私たちにとってもうれしく思えることです。

「信仰年」という特別な年に、私たちのカトリック教会が経験したこれらの一連の出来事は、日本のカトリック信者である私たちにとって、自分たちがカトリック教会に属するカトリック信者であることをあらためて意識させることになったのではないかと思われます。それが事実であるなら、私たちが知ることのできた今回のバチカンでの出来事は、「信仰年」の私たちへの最大のメッセージとして受けとめることができると思います。

日本の社会の中でそれぞれの日々を生きている私たちは、自分がカトリック信者であることを「積極的に」意識することが困難な状況の中に置かれています。そのような私たちにとって、自分が所属する共同体のミサに参加することが、反省してみると、自分のカトリック信者としての意識を保持し続けるために必要であることを痛感しているはずです。

ミサが行われる共同体の中に身を置くことができるとき、私たちは、「私たちの教会」を意識し、そのことによって、自分たちの「カトリック信者」としての意識を回復することができるからです。日々の生活の中で信仰を保ち続けようとするなら、私たちは「教会」を必要としているのです。このように考えるなら、私たちのカトリック信者としての信仰は、カトリック教会を前提としていると言えるでしょう。そもそも、私たちはカトリック教会で洗礼を受けることによって、カトリック信者となったのです。けれども、これも反省してみると、私たちがミサに参加している私たちが所属している共同体が、「カトリック教会」であることを、私たちはその都度、どこまで意識しているでしょうか。

今、私たちが参加している私たちの共同体のミサの典礼は、第2バチカン公会議の「典礼憲章」に結実した、それまでの教会と、そのミサ典礼に対する真摯な反省と、見直しに基いて、公会議後に刷新されたミサ典礼書に則ってささげられています。私たちは自分が所属する共同体のミサに参加し、それを、日本の社会の中に生きる日々のカトリック信者としての信仰のよりどころとすることによって、確実に、カトリック教会の長い歴史における、第2バチカン公会議後の時代を生きているのです。

第2バチカン公会議以前の先輩たちから受け継いできた、「ミサにあずかる」という表現が意味していたことは、「主体的にミサに参加する」ということであることを、私たちは新たに発見したのです。私たちが参加するミサは、私たちの「共同体がともにささげるミサ」であり、私たち一人ひとりは、その共同体のミサに参加することによって、共同体のメンバーとしての責任を果たし、そのことによって、私たち一人ひとりの信仰が支えられていることを知るようになったのです。そのために、私たちが理解できることばでミサがささげられることが必要だったのです。

「イテ、ミサエスト」というミサの終わりのことばが、「行きましょう。主の平和のうちに」と日本語になることによって、私たちはミサの中で聞いた聖書のことばと、「これはあなたがたのために渡されるわたしの体である」と示されたキリストの聖体に養われて、私たちが生きるそれぞれの日本の社会の現実の中に、主の平和をもたらすために、イエス・キリストの弟子たちとして派遣されて行くことを意識するようになったはずです。

私たちが自分のカトリック信者として信仰を支えるために参加しているミサはこのような意味があることを知り、それを積極的に受け入れることが、「意識的」「行動的に」ミサに参加するということなのです。第2バチカン公会議によって開かれた、このような「教会の自己理解」の中で、現代のカトリック信者である私たちはそれぞれの信仰を生きるよう招かれているのです。


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