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日本のカトリック教会の歴史
6.島原の乱(島原天草一揆)
天草四郎時貞
島原、天草地方は、キリシタンの興隆期には、当時領主であった*1有馬晴信や、*2小西行長、天草の土豪たちもキリシタンだったこともあり、島原半島、天草諸島の多くの百姓はキリシタンでした。
しかし、岡本大八事件をきっかけに幕府は、キリシタン禁制を発し、厳しい弾圧をはじめました。その結果、キリシタン土豪や宣教師が消滅するとともに、一般百姓の信徒も1633(寛永10)年ころまでには、形の上では全て転宗が完了しました。しかし心から棄教できない者は、潜伏状態に入りました。
天草切支丹館前の像
また、島原藩と、当時天草を領有していた唐津藩は、キリシタン弾圧とともに、厳しい年貢の取り立てや課税を行いました。百姓たちは、20年間に及ぶ圧政に耐え、不満が積み重なっていきました。
この情勢の下、*3小西・有馬の浪士たちは密かに談合し「寿庵(じゅあん)」という者の署名によって、世界の終末を予言する回文を出回らせました。これには、キリシタンだけが世界の終末から救われると説かれており、小西行長の旧臣 益田好次の子、*4時貞(通称 天草四郎)が「でいうすの再臨」と書かれていました。
こうして、潜伏状態にあったキリシタンの信仰活動が再び表面化し、多くの百姓がキリシタンに立ち帰りました。そして、キリシタンの終末思想に、自分たちの生きる道を求めて、天草四郎の下へ結集していきました。
1637(寛永14)年10月25日、島原半島南端の有馬村で、キリシタンの信仰活動を妨害した代官が殺害されました。これを契機に百姓たちは立ち上がり、島原城下を襲うなど、一揆の勢いはすぐに広がりました。
同じころ、天草でも百姓が武力蜂起(ほうき)しました。島原・天草の一揆勢は合流し、島原城、富岡城を攻撃しました。
天草の一揆の激戦地 祗園橋
一揆勢は、最終的にはそれらの城を落とすことはできませんでしたが、有馬氏の古城で石垣だけ残っていた原城を修復し、そこを拠点としました。
そこに、天草四郎ら老若男女を含めた村民 3万数千名が入城し、立て籠もりました。
幕府軍は当初、百姓一揆程度と軽視していました。しかし、一揆勢はキリシタン信仰の下で結束し、幕府軍の攻撃によく耐え、大いに幕府軍を悩ませました。
そのため幕府は、九州諸藩の他、西南諸藩にも出兵を命じ、幕府軍は総勢12万余りになりました
幕府軍の総指揮をとった松平信綱は、むやみに戦闘を仕掛けることをやめ、捕縛した天草四郎の母や姉を利用したり、矢文を城内に打ち込んだりして、投降を呼びかけました。
また、平戸オランダ商館長に依頼して、オランダ船による砲撃を行いましたが、これは一揆勢からも幕府内部からも、外国の内政干渉にあたるとして批判の声があがり、すぐに停止されました。
一揆勢の結束は堅く、籠城は長期化しました。しかし、幕府軍に補給路を断たれた一揆勢は、2月になると城内の食料も尽き、1638(寛永15)年 2月28、29日の幕府軍の総攻撃を受けて、落城しました。
籠城していた者は全て、女こどもに至るまで、皆殺しにされました。
天草・本渡市 殉教戦千人塚
この島原の乱は、キリシタン一揆の観がありますが、本来的には領主の苛政に対する百姓一揆であり、キリシタン信仰によって団結をはかったものといえます。
これにより、島原・天草の領主、松倉氏と寺沢氏は、苛政を理由に処分を受け、両家とも断絶することになりました。
この乱は、幕府に大きな衝撃を与えました。そしてその結果、キリシタン禁制が、厳重に整備されることになりました。
宣教師を送り込んでくる可能性の高いポルトガル貿易を、1639(寛永16)年に禁止し、九州を中心に西南地域に遠見(とおみ)番所を設置するなど、沿岸警備体制を強化しました。さらに、オランダに対しても監視することにし、1941(寛永18)年から、長崎出島への商館の移転が命じられました。
また、潜伏キリシタンが立ち帰って蜂起したことを重く見て、全国の潜伏キリシタンの摘発に乗り出しました。その後、17世紀中期までに、全ての人民を対象に、毎年宗旨を改める、*5宗門改(しゅうもんあらため)制度が全国的に成立していきます。
- *1 有馬晴信(1561ごろ-1612)
- 1580年イエズス会の巡察師ヴァリニャーノから受洗。
キリスト教の宣教を保護し、領内に日本最初のセミナリオが建設された。
大友義鎮(よししげ)、大村純忠とともに天正遣欧少年使節を派遣した。
浦上をイエズス会に寄進し、禁教後も宣教師らを保護する。 - *2 小西行長(1558ごろ-1600)
- キリシタン大名。
日向守、摂津守。
宇喜多家に仕え、その後豊臣秀吉に従った。
禁教後、オルガンティノを小豆島に匿う。
1588年、肥後十二万国の領主となる。 - *3 小西・有馬の浪士たち
- 岡本大八事件を理由に島原半島の領主だった有馬晴信は処刑され、子の有馬直純は日向国に転封となったが、晴信の直臣たちは、地侍だったこともあって多くは随従しなかった。その後、松倉氏が家臣団を率いて入城したため、有馬遺臣たちは、帰農しなければならなくなった。
また、小西行長領であった天草は、関ヶ原の役後、寺沢氏の支配となった。 - *4 天草四郎時貞(1622ごろ-1638)
- 島原の乱における首領。
父は小西行長の旧臣。本名は、益田四郎。
9歳のころから手習、学問を修め長崎にも遊学した。 - *5 宗門改(しゅうもんあらため)制度
- 江戸幕府は1614年、全国的にキリシタン禁制を発布。各地に宗門改めを行い、仏寺の檀家であることを証明する、寺請制を採った。島原の乱後、1640年幕府に、1664年からは、1万石以上の藩にも宗門改役(しゅうもんあらためやく)を設置し、1671年からは宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)を作成し、全国的に施行された。
この宗門改は、百姓は庄屋、武士は組頭によって行われた。摘発され、改宗した キリシタンは、誓紙および俗誓・寺請起請文を提出し、寺院の檀家になることで、キリシタンでないことを証明した。
はじめは、転びキリシタンだけに義務づけられたものであったが、段階的に整備され、1660年代以降、すべての領民、あらゆる階層の人びとが檀那寺に所属するようになった。