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日本のカトリック教会の歴史
8.18世紀日本再布教の試み
親指のマリア
1644年以降、日本には一人の神父もいなくなり、禁教政策はますます厳しく行われ、キリシタンたちは潜伏を余儀なくされていました。そうした時代、一人の宣教師が日本に送られました。
1703年、*1シドッティ神父は宣教師として、鎖国下への日本への再布教の使命が与えられました。
翌年、フィリピンのルソン島に到着し、日本語の勉強などをしながら日本渡航への機会を待ちました。そして、1708年 スペイン船で出航、屋久島に到着しました。日本に近づいたとき漁師に上陸の手助けを求めましたが断られたため、夜ひそかに一人、小舟で上陸しました。
この時、シドッティ神父は、日本の着物を着、帯刀し、月代も剃っていましたが、すぐに外国人と見破られ、捕らえられてしまいました。
薩摩藩、長崎奉行の取り調べも受けた後、江戸に連行され、*2新井白石の尋問を受けることになりました。
白石は4回の尋問を行いました。
シドッティ神父は、日本に関して、ローマやルソンで先に学んできており、太閤がキリシタンを禁じたこと、この時代の禁制は オランダ人がキリシタンの教えは世を乱し国を奪う行為だと言ったことによるものだとの見解を述べました。したがって、キリシタンには領土的野心はなく、禁制を解いてもらい、それが許されれば 使節を遣わして布教を行いたいという希望を述べました。
白石は、キリシタンの領土的野心に関しては、シドッティ神父の言い分に納得を示し、著作の中で、そういう謀略はないであろうとしています。しかし、キリシタンの教えについては、浅はかな教えで、明国が滅んだのもキリスト教の流行が原因の一つだったと言われていることから、キリシタンを禁じたのも過剰な防御ではない、と結論づけました。
この尋問の結果、白石はシドッティ神父の学識、そして人柄に、深い印象を受けました。
そのため、シドッティ神父をマニラに追放するように、白石は幕府に進言しましたが、聞き入れられませんでした。しかし、本来なら死刑のところが終身刑となり、小石川のキリシタン屋敷に幽閉されました。
キリシタン屋敷では、はじめはあまり厳しく取り扱われませんでしたが、身の回りの世話をしてくれていた老夫婦に、洗礼を授けたことが明らかになったため、シドッティ神父は地下牢に移され、そこで1714年、衰弱のため殉教しました。
結局シドッティ神父は、実際の布教活動は一切できず、日本の禁教政策も変えることはできませんでした。しかし、このころローマの教皇庁は、日本の教会を何とか助けられないだろうかといろいろ方法を探していました。
日本の司教に任命された 一人のドミニコ会士は、インドまで行って それ以上進むことができませんでした。
17から18世紀のはじめころまでは、シャムの司教は日本の代牧に任命されていましたが、実際にはなにもできませんでした。
また、パリ宣教会が、朝鮮半島の宣教を受け持ったとき、そこから日本に渡る可能性もありましたが、その宣教師自身が殉教してしまい、この希望も消えてしまいました。
しかし、ローマは日本の教会を忘れてはいませんでした。
- *1 シドッティ神父 (ジョアン・バプチスタ・シドッティ)(1668-1714)
- イタリア・シチリア島パレルモ出身。教区司祭。
- *2 新井白石(1657-1725)
- 江戸中期の政治家、儒学者。徳川6,7代将軍に仕えて、幕政を補佐する。1709年、小石川キリシタン屋敷でシドッティ神父を取り調べ、『西洋紀聞』『采覧異言』を著す。これらは鎖国下の日本において西洋事情を紹介した極めて早期のものであるが、ヨーロッパの知識・技術の優秀さを認めており、後の洋学勃興を導き出す先駆的業績となった。
また『天主教大意』においては、鎖国の根本理由とされているキリシタン奪国論を否定した。
その他、儒学、言語学、文学、歴史学などの多彩な著作活動を行った。