マルコで祈る
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目が見えるようになりたいのです
マルコ10.51
この願いを聞くのを、
イエスはどれほど待ちこがれていたことだろうか。
主を見ることが人間の命なのだ。
そのために生まれたので、
主のみ顔を仰ぎ見るまで、
人の心は安らぐことがない。
イエスは十字架によって神殿の幕を引き裂いて、
至聖所と人々との隔てを取り除き、
この地上に神を余すところなく啓示する。
「見る」は原典のギリシア語で「アナブレポー」が用いられている。
「見上げる」あるいは「見なおす」という意味だ。
信仰はイエスを「見上げる」こと、
わたしのために十字架につけられたイエスを仰ぎ見ることなのである。
そこにわたしは、
これまでに見たこともないようなことを見る。
なぜなら世のはじめから、
欺く者(蛇)がそれをわたしの目から隠していたからである。
それはつまりわたしに注がれる愛だ。
十字架のイエスを見上げるなら、
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」(フィリピ3.8)を味わう。