教会をたずねて
カトリック山口教会(広島教区)
内陣 |
祭壇 |
正面十字架 |
聖櫃(せいひつ) と聖体ランプ |
朗読台 |
聖堂内のマリア像 |
十字架の道行 |
洗礼場 |
聖堂入り口の扉 |
ザビエルの遺物 |
パイプオルガン |
シンボル のついた十字架 |
塔 |
バルコニーのザビエル像 |
クリスチャン記念館 |
ダミアンホール |
書院(アゴラ) |
平和の鐘 |
井戸の横で布教する ザビエルの像 |
→ 小聖堂
歴史と聖堂内部
1549(天文18)年8月15日、鹿児島に上陸した聖フランシスコ・サビエルは、1550(天文19)年10月末にはじめて山口を訪れます。さらに、1551(天文20)年4月初めに再度山口を訪れたサビエルは、大内義隆に謁見し、宣教の許可を得て、9月まで滞在しました。トルレス神父が平戸から山口へ来てザビエルの後を引き継ぎ、宣教活動を開始しました。
陶晴賢の乱により大内義隆は死に、その後を継いだ義隆の弟大内義長のもと、5年間で山口の教会は大きく発展しました。1557(弘治3)年末、山口におけるキリシタンの数は2000人でした。
しかし、1555(弘治元)年に陶隆房が毛利元就によって敗死し、大内義長は大変な打撃を受けました。毛利軍の山口への進攻をまたずに内紛の連鎖反応が起きました。杉重矩の遺児、重輔兄弟が父の仇を討つため、晴賢の長子長房を富田若山城に攻めました。長房は逃れて長穂の竜文寺で自害し、翌1556(弘治2)年 重輔兄弟も内藤興盛の嫡孫隆世に山口で討たれました。この戦は山口の町の中で行われため、教会も宣教師の家も焼失しました。
毛利元就は、1557(弘治3)年3月、山口の町を襲って破壊し、大内義長は築城途中の高嶺城を捨てて山口を逃れ、内藤隆世と共に長府の勝山(雄山)城に拠りましたが、毛利勢によって滅ぼされました。
1602(慶長7)年、毛利輝元の命により山口の神父達は追放され教会は閉鎖され、迫害の時代がはじまりました。
迫害の時代が終わり、1888(明冶21)年にパリ外国宣教会のコンパニオン神父が山口に入り、田町に仮聖堂をつくり、さらに1889(明冶22)年2月には、同じくパリ外国宣教会のヴィリオン神父が主任司祭として就任し、11人が洗礼を受けました。米屋町に仮聖堂がもうけられ、1895年には、今道町に移動しました。
1923(大正12)年には、パリ外国宣教会に代わってイエズス会が宣教活動開始し、1938(昭和13)年にドメンザイン神父が主任司祭として就任しました。1948(昭和23)年7月には、現在の亀山の土地を購入し、1989(平成元年)年11月19日には、「山口教会復起 100周年記念式典」が盛大におこなわれました。
ザビエル来訪400年を記念し旧ザビエル記念聖堂が献堂され、1952(昭和27)年10月26日の落成献堂式をむかえました。この記念聖堂建設の、設計、微細な部分にわたる聖堂内外の技術的設備や、ステンドグラスに至るまで、当時主任司祭であったドメンザイン神父の苦心を見ることができます。
1991(平成3)年9月5日、火災により旧サビエル記念聖堂が焼失しました。
1993(平成5)年には、聖堂再建委員会発足し、1996(平成8)年1月28日に山ロサビエル感謝祭 [旧聖堂とのお別れ会]が行われ、3月10日、新しいサビエル記念聖堂起工式が行われました。
1998(平成10)年4月29日、サビエル記念聖堂竣工式・献堂式ミサが行われました。この聖堂は、イタリア人のコンスタンチノ・ルッジェリ神父と建築家ルイジ・レオニ氏によって設計されました。
山口でのキリスト教の出発を記念すると同時に、現代の人にも通じる大切なメツセージを伝えるための教会の建築です。
新聖堂は光と水と幕屋(テント)をテーマとしています。神ご自身を象徴する光は、多くのステンドグラスを通して組み入れられています。水は罪からの清めと新しいいのちを表し、洗礼場、入り口の水盤、前庭に滝と池と噴水が設置されています。そして、建物全体が幕屋(テント)を表しています。
- Webサイト:http://www.xavier.jp/
- Laudate キリシタンゆかりの地をたずねて 盲目のダミアン