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どうしてシスターに?
シスター マリア 近成眞弓
本物への憧れ
神様は、ある日突然わたしを修道生活に招かれました。 わたしは驚きましたが、同時にとてもうれしくなりました。本物だけを求める生き方をしたいと以前から思っていたからです。もちろん、人はそれぞれ自分の選んだ道で真実の生き方をめざすことができます。もしできなければ、社会的にどんなに高い評価をもらったところで最期には虚しさを感じるでしょう。とにかく、当時のわたしは、美よりも人生の真や善の部分に価値を置いていました。そして、その傾向は幼いころからあったようです。
通園している幼稚園の鳥小屋に入って、そうじをしていたときのことです。扉をうっかり開けたままにしていたため、小鳥が一羽外に飛び出ようとしていました。閉めればいいのですが、タイミングとしては小鳥を扉に挟む危険がありました。それなのに一人の男の子が勢いよく閉めてしまったのです。床に落ちて動かなくなった小鳥を見下ろしながら、わたしはめずらしく非常に怒っていました。元に戻せない一つのいのちよりも、逃がした責任をとらなくてすむ方を選んだことを卑怯だと感じたからです。それは憶測にすぎませんし、小鳥の死自体も些細なことです。ただ、そのときどきで人として一番「まっとう」と思えることを選びとるのを、わたしも子どもなりに大事にしたかったのでした。
だからといって、あれから今に至るまで、不純なところがわたしにないどころではありません。むしろ、真実の生き方への憧れが強いのは、わたしの場合自己矛盾のせいかもしれません。けれども、もしも自力で本物になれるなら、その人に神様はいらないでしょう。本物に心惹かれながらも、偽物に簡単に目が眩んでしまう・・・。そのわたしの罪も背負って十字架の道を歩みとおしてくださった主に助けていただきながら、本物への道を進んだり、弱さから引き返したりしています。
そんなわたしだけでなく、多くの人にとって、人生の初め、つまり赤ん坊としてこの世に来られたイエス様になら、自分の姿を忘れて理屈抜きに近づいていくのは普段よりやさしいことでしょう。
今年も心をこめて祈ります。「主よ、来てください」と。