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どうしてシスターに?
シスター マリア・ソフィア 市来節子
神のなさる業は 時にかなって美しい
聖フランシスコ・ザビエル
九州の田舎で育ったわたしが、宗教的行事に参加するのは、ごくまれにある法事の時ぐらいで、宗教的環境のなかで育ったとは思っていません。まして、キリスト教はわたしの住んだ村では無縁でしたし、知るすべもありませんでした。
スポーツが大好きで、教室のなかで勉強しているよりも、運動場を走りまわり、ボールを飛ばすことに一生懸命で、成績が下がろうが上がろうが、無頓着。ただバレーボールの選手として、活躍し、優勝することに夢中で過ごす中学生でした。おかげで、高校進学が危ぶまれて焦り、悲壮な思いもしましたが・・・。
授業に集中しなかったわたしでも自分の大切な人生の「かぎ」となる話はちゃんと聞き取っていたことになるのでしょうか? 自分でも不思議に思います。どうして、その授業の中にフランシスコ・ザビエルの話が出てきたのか覚えていませんが、自分の郷里ということもあったのか、当時の鹿児島で? 彼はどんな思いで? というさまざまな思いが渦巻きました。この授業で初めてキリスト教という言葉に出会いました。
その後、高校通学の途中に、人の住んでいる気配のない日本家屋の小さな教会があり、ある時から、その教会に珍しいスータン姿の3人の外国人宣教師の姿を目にするようになりました。わたしたち学生の「話題の人たち」となって彼らに好奇心と興味を持つようになり、同時に、中学の授業で聞いたフランシスコ・ザビエルのこともあって、教会を訪れるようになりました。来日して間もない宣教師の話の内容は理解できるようなものではありませんでしたが、彼らの存在そのものから、彼らが話そうとしていることが伝わってきました。
祖国を離れて神さまと人々のために田舎の町で生活する宣教師の生き方に敬服し、その生き方に刺激され、わたしもこんな生き方をしたい! という思いがわたしにとって「修道生活」でした。フランシスコ・ザビエルの話から、キリスト教を知るきっかけをつくってくださった中学の先生。生き方で神さまの愛を輝かせてくださった3人の宣教師。この方々を通して修道生活への道を示してくださった神さまの不思議なみ業を眩しく思いながら、その前で「神さまのなさる業は、時にかなって美しい!」と、そのみ業を賛美し、いただいた修道召命の恵みを感謝しているわたしです。