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どうしてシスターに?
シスター マリア・イグナチア 石野澪子
神のみ手に導かれて
洗礼を受けて間もなくのこと、わたしは修道院に入ることを希望した。主任司祭を訪ねて、小さな胸の中を打ち明けた。
「ほ~、聖パウロ女子修道会ね~。出版使徒職。印刷できますか?」
「いいえ。」
「製本は?」
「いいえ。」
「編集の仕事は?」
「いいえ・・・。」
「まあいいか。修道院には便所掃除もあるから。それならできるでしょ!」
これが主任司祭のわたしへの餞(はなむけ)のことばだった。これを胸にわたしは修道院の扉を叩いた。
あれから何十年もの歳月が流れた。バラ色の日々ばかりを送ってきたとは義理にもいえない。だけど修道生活に召されたことに、わたしは『感謝』以外の何物もない。
キリスト者として生まれたばかり、右も左もまだよく分からないわたしを、これまた日本に来て間もなく土台もしっかりしていない修道会に召されたのだから、主は、ご自分でわたしの手をとって導いてくださる他はなかった。思えば実に紆余曲折の多い道を歩んできたものだ。
昔にくらべれば、今は修道生活の形態もずいぶん変わってきている。聖パウロ女子修道会の特殊目的も、“出版使徒職”から“社会的コミュニケーション手段による使徒職”と名が変わった。印刷機や製本の機械は、コンピュータやインターネットにとってかわった。だけど徹底的にキリストに従うという修道生活の本質に変わりはない。
昔は神とわたしという縦関係を大切にし、克己や謙遜、苦行など、修徳の実践や自己の聖成に重きをおいていたものを、今日は人々との強い連帯や交わりという横の関係を強く打ち出しているとしても。この世で神に絶対的な価値を見出すことのできる人のみが、神のみ声を聞いたら、勇気をもってそれに従うことができると、わたしは確信している。