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どうしてシスターに?
シスター マリア・セバスチアナ 三木節子
歩く宣教師になりたかった
わたしが学んだ中学は仏教系だった。校長先生はお坊さんで、朝礼のときにはお経を唱えることになっていた。こうした雰囲気の中で「人生とは何か」「何のために生き働くのか」といった疑問に悩まされ、心の中にわき起こる声をかき消すために、スポーツに打ち込んでいた。
忘れもしない10月21日の夕方、友人と歩いていたとき、友人の知人に誘われて、初めてカトリック教会に入った。それは戦後、アメリカ進駐軍のカマボコ兵舎といわれていた仮設の聖堂だった。
中ではロザリオの祈りが唱えられていて、続いて聖体降福式があり、小さな聖堂いっぱいに香のかおりがただよっていた。わたしはここに「答え」があると直感した。何もわからないまま、10月の終わりまで毎夕このロザリオの祈りに参加した。
それからというもの外国人司祭の要理教室に通ったが、日本語がたどたどしくて内容もよく分からなかった。それでも心の疑問への答えを得ようと毎回参加した。
そんなある日、青年会の先輩たちに誘われて行ったのが聖パウロ女子修道会だった。ここで日本人のシスターから要理の勉強の仕上げをしていただき、受洗した。
素直について来るわたしにシスターたちは、てっきり入会するものと決め込んで疑わなかったようだ。わたしはがぜん目が覚めた。「自分の生涯の選びは自分で決めるもので人から決められるものではない」と。きっぱりと入会の話を断わり、修道院には近づかないことにした。
教会活動として一区域を担当し、要理通信パンフレットを配布して歩いた。ミサに行ってみたいと希望する人の家には朝早く迎えに行った。要理を勉強したいという人には、会社の引け時を待って案内した。わたしは、まだキリストを知らない人々に一軒一軒、キリストを知らせて歩く「歩く宣教師」になりたかった。
修道院から遠ざかっていたが、この修道会の家庭訪問というミッションと同じことをしていた。今度は自分で決心し「若さ」をささげ物として入会した。
わたしの成長を楽しみにしていた母は、大きな犠牲を払った。母は「わたしは先に逝く身だから、あなたは自分の思う道を行きなさい」と涙の中から送り出してくれた。入会後、母は長いこと病の床にあったことを後で聞いた。わたしの修道生活は、母のこの犠牲の上に築き上げられたものである。決して無にしてはならないという思いに支えられている。
振り返ってみると、わたしの召命の道にはいつも摂理的な仲介者がいた。今でもそうである。だからわたしも人々をキリストへと導く案内者、メディアとしての自分の存在を意識している。この役割を「キリストを生きて伝えたい」と願って祈り努めている日々である。
● “Laudate”や“kidsページ&rdquoなどにあるイラストのいくつかは、このシスター三木が描いた作品です。『ありがとうゼノさん』や『世界のクリスマス伝説』(いずれも女子パウロ会)の画も担当しています。