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どうしてシスターに?
シスター マリア・アマリア 山田絢子
主よ、あなたが私のすべてです
2カ月あまりも両親の猛反対を受けた後の入会の日の母は、まだわたしを引き止めようとして、わたしの荷物を出しては入れ、入れては出しながら「今日、いっしょに温泉にでも行こうよ」と悲しそうに言った。わたしは遠くから眺めながら居間の火鉢の前に座って灰の上に字を書いていた。
その時である。天井の片すみから突然強い光がさすのを感じてわたしは、いきなり「お母さん、やっぱりわたしは行く」ときっぱり言った。今もって自分でも理解しがたい決意であったと思う。その瞬間立ち上がった母は苦しみを心に秘め、娘の門出を祝うつもりで赤飯を炊きはじめた。夕方の汽車に間に合うように種々の準備をしてくれたが、両親とも見送る勇気はないと言って伯母に代行させた。汽車が出発してまもなく、わたしは駅の構外の道はずれでぽつんと立ってわたしを見送る父の姿を見て、涙した。
これほどまで親に反対されて、なおかつ修道院に入ったのはなぜだろうか。社会からの逃避でも、失恋でも家族に対する不満でもない。社会で受けられ、両親に深く愛され、いくつもの縁談を断ってもなお、わたしの中に強まっていくその声。祈れば祈るほど、反対されればされるほど、わたしは強められていくのを心に感じた。
あれからすでに半世紀がたとうとしている。神の恵みはあふれるほどであった。それはわたしを修道院に送った両親の犠牲の実でもある。父母はカトリックを知らなければ、修道院に入った娘を理解することはできないと考えて、教えを学び洗礼を受けた。そして、娘をささげたことを喜び天に召された。
わたしが修道院に入ったのは、召命という神の恵み以外のなにものでもない。
「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。」(ヨハネ 15.16)
答えは生涯わたしの毎日で出していかなければならない。すべてを主イエスにかけて従ったのであるから、主のみ国のために、すべての人にすべてとなるように、聖パウロの娘にふさわしく生きたいと願っている。