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どうしてシスターに?

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シスター マリア・チェチリア 安田智恵子

少しずつ自由に

シスター安田


わたしはキリスト教信徒の家庭に生まれたのではないが、宗教心の深い両親に育てられた。主イエス・キリストとのはじめての出会いは小学2年のころである。それは新潟市の繁華街の出店で十字架のネックレスを見た時のことだった。十字架につけられているかた、このかたこそわたしにとって絶対の存在だと、心の底で強く感じた。なぜなのか、言葉では説明できないが、それはわたしの人生を決定する現実の出来事だった。

それ以後、わたしはひとりで祈りはじめたように思う。そしてこのかたを知ろうとし、たずね続けて、ついに20歳の時に洗礼の恵みをいただいた。

キリスト教について学び、神を信じはじめたころから、わたしには二つの問いがあった。一つは、人間にとっていちばん大切だと教えられた「神に仕える」とは、具体的にどういうことなのか、ということ。二つ目は、神はわたしに何を望んでおられるのか、ということだった。
 受洗後、わたしはレジオ・マリエという活動グループに入り、病人訪問や教会の手伝いなどをしながら会社勤めを続けていた。数年後、わたしは祈りながら探していた答えを、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25.40)という聖書の言葉のなかに見いだした。

一方、結婚についても考えた。もし結婚するなら、自分の家族の幸せのために尽くすことは第一の務めになる。しかしわたしは、「自分が幸せなとき、どこかで悲しみ、苦しみ、泣いている人がいたら辛いだろうな、皆が幸せになるときにわたしも幸せになりたい」と思った。そのためには、自分のすべてを差し出す生き方、つまり修道生活があることを知った。そして、いろいろな助けをいただいて、イエス・キリストの福音を伝えるという奉仕の道へと導かれた。この恵みがどれほど大きなものであったかと、感謝の思いは年ごとに深まっている。

しかし、入会後すぐ修道生活に真の喜びを見いだせたわけではない。長い年月が必要だった。ふりかえってみると、まず神の愛の招きがあり、それに応えようとしてひたすら祈るための恵みが与えられ、そうして祈り続けるなかで少しずつ少しずつ自由になってきたように思う。永遠にわたしの力強い弁護者でいてくださる神に、これまで以上の信頼をおいて、これからも神と人びとのために働かせていただききたいと心から願っている。


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