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山本神父入門講座

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19. イエスとつまずき

この入門講座は、イエスが安息日に故郷ナザレの会堂で、預言者イザヤの書の次の箇所(61章1~2節)を読まれた場面で始まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

現在のナザレ
現在のナザレ

そして、イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われた。聞いていた人々は、イエスがカファルナウムでいろいろな「奇跡」をされたことを知っていて、ここは故郷なのだから、当然何かやってくれると思っていた。しかし、イエスは、「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言われ、預言者エリアとエリシャの例を引いて、「奇跡」は人の望みのままに行われるのではないことを教えられた。「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し町が建っている山の崖(がけ)まで連れて行き、突き落とそうとした。」望みどおりに「奇跡」をやってくれないのなら「メシア・救い主」など要らないというのである。彼らはイエスにつまずいた(ルカ4章18-30節 参照) 。


イエスの宣教活動の進展を静かに見守っていた人がいる。洗礼者ヨハネである。彼は、領主ヘロデを兄弟の妻ヘロディアとの不倫のことで諌(いさ)めたので、牢に入れられていた(ルカ3章19-20節)。

ヨハネはイエスの活動の報告を受けて、二人の弟子をイエスのもとに遣わしてきかせた。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」イエスはお答えになった。「行って見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ7章18-23節)こう言って使いの者を帰したあとイエスは言われた。

「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心(みこころ)を拒んだ。」普通に考えるなら洗礼者ヨハネを受け入れるのが当然なのに、ユダヤ教のリーダーたちだけは、独断と偏見から洗礼者ヨハネを受け入れなかった。しかし、それによって、「自分に対する神の御心を拒んだ(ルカ7章18-23節)」となると、事態は重大である。

わたしたちを大切にし、幸せにしようと望んでおられる神さまの、わたしたち一人ひとりに対する、御心・救いの計画を無にしてはいけない。それにはどうすればよいのか。イエスは続けて言われた。「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に坐って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。』洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」(ルカ7章31-35節)

わたしたちには好き嫌いがある。厳(きび)しい人と、優しい人がある。飲食、特に酒についてはうるさい人が多い。「大食漢」、「大酒飲み」などというレッテルを簡単に張(は)ってしまう。そういうふうにして、イエスや洗礼者ヨハネを退けてしまった人もいるのだ。イエスの行われた「奇跡」は、彼が神から遣わされた「救い主」であることをあかししている。それならば、いつも心を静めて、いま、わたしのために、イエスはどんな曲を奏(かな)でておられるのかに耳を傾けよう。そして、その時、その時の曲に合わせて、踊り、泣き、楽しみ、悲しむようにしたい。


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