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山本神父入門講座
24. ペトロの信仰告白とその波紋 Ⅲ
ペトロの信仰告白のあと、場面は急転回する。
それまでされなかったことをイエスが始められたからである。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(マタイ 16章21節) マタイはこう記している。
全く予期しない展開にペトロは強い反応を示した。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』」(マタイ 16章22節) 。
聖ペトロ
イエスはペトロに、さらに強く、厳しく対応された。「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』」(マタイ 16章23節)。
イエスとペトロのあいだに、重大な食い違いが生じた。いったい、何がどうしたと言うのだろうか。ペトロの信仰告白の場面と、受難の予告とペトロの反発の場面を比べながら、順番に見直していこう。
まず気になるのは、ペトロの激しい反発である。「メシア、生ける神の子」であるとペトロも告白したそのイエスが、「メシア、生ける神の子」としての人生とその最期について話されたのに、何の権利があって反対するのか。イエスに褒(ほめ)められて慢心したのか。解決の鍵は、「あなたは、・・・神のことを思わず、人間のことを思っている』」(マタイ 16章23節) ということばにある。信仰告白のときにも「人間」ということばは出てきた。「幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16章17節)である。イエスを「メシア、生ける神の子」と認めさせたのは、人間ペトロではなく、天の父の示しであった。それに引換え、受難の予告に反発したのは、人間ペトロ、天の父の示しではなく、欲望や野心によって動いていた生身の人間ペトロであった。
ペトロは信仰告白をしたとき、イエス「が」メシア、生ける神の子「である」ことはわかっていた。しかし、イエスが「どんな」メシア、生ける神の子「である」のかは、十分に、いや、全くと言っていいほど分かってはいなかったのである。
信仰告白とその後のやり取りのあとで、イエスが、「御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」(マタイ16章20節)のはなぜだったのか、その理由がわかるような気がする。ペトロも弟子たちも、「イエス『が』メシア、生ける神の子『である』」ことを信じていた点では、群集や他の人々より優れていたが、「イエスが「どんな」メシア、生ける神の子『である』」かは、まだ十分にわかっていなかったのである。この点では、周囲のユダヤ人と五十歩百歩で、大した変わりはなかった。
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言って、「『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」とイエスにしかり飛ばされたペトロは、やはりユダヤ人である。頭のどこかには、メシアは新しいダビデ王、偉大な将軍、統治者という考えが潜んでいたに違いない。
イエスの受難、十字架、復活の予告は三回繰り返される。そのようにして、イエスは天の父が望まれたメシアの姿、メシアとしてのイエスの使命、そのようなメシアであるイエスに従う道を教え、弟子たちを、真の意味での使徒として育てていかれるのである。
聖ペトロのキリスト否認
信仰告白のときペトロに与えられた天の父の示しは、一度に集中的に与えられるのではなく、長い「教育期間」のあいだ、さまざまな試練、試行錯誤をとおして働き、メシア、生ける神の子の本当の姿をとらえさせてくれるのである。イエスに従っていこうとする者も同じである。ともすればわたしたちも、自分かってなメシアのイメージを作り上げる。この二つの場面をいつも心に留め、イエスの真の姿をとらえることができるように祈り、努めるようにしよう。