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山本神父入門講座

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55. 聖体の秘跡2

聖体

パンの増加のとき、「イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑(くず)を集めると、12籠(かご)もあった」(ルカ 9章16-17節)。この記述は、なんとなく最後の晩餐のイエスのしぐさ、ミサでの司祭の動作を連想させる。初代教会の人々は、わずかなパンと魚で5000人もの人に食べさせた奇跡に重ねて聖体の秘跡をとらえていた。ヨハネは、「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑(くず)を集めなさい』と言われた。」(ヨハネ 6章12節) と書いている。ヨハネはここで、ミサの後に残った聖体をぞんざいに取り扱わないようにと言っているのである。

初代教会は、病気などの理由でミサに与かれない信者には、司祭、助祭、信徒の奉仕者が病者のところへ聖体を運び、自宅などで「いのちのパン」を拝領させていた。そのために、ミサ後も聖体を保管していた。

教会は、病者を大切にしている。聖書も書いている。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」 (ヤコブ5章14-15節)。

この言葉どおり、教会は病気、けが、老齢などのため、死の危険にある信徒に、罪の告白と赦し、塗油、聖体拝領(旅路の糧)を行っている。それが「病者の塗油」の秘跡である。病気、老衰などが少しでも重くなれば、特に危篤ではなくても、できるだけ早く教会と連絡し、病床での聖体拝領、必要ならば、病者の塗油を受けるようにすることが大切である。

カトリック教会では、このような緊急時のために聖体を保管してきた。やがてその聖体を礼拝する習慣が始まったのである。当初は目立たない場所に保管されていた聖体は、中央祭壇の上や近くに設けられた聖櫃 (せいひつ) の中に安置されるようになった。中央祭壇近くの脇祭壇、あるいは、隣接の小聖堂に安置されていることもある。そして聖体が安置されていることを示す、赤いランプ (聖体ランプ) が灯されている。カトリック以外のキリスト教会では、このような聖体安置は行われていない。


聖体の秘跡には、いろいろな面がある。まず、神である父に対する、人類のためのささげ物、十字架の死と復活の記念、糧として与えられた、いのちのパンと血の杯。この3つである。この3つの面は、一つ一つ大切であるが、そのどれかを重んじる余り、他の面を軽視する危険がないことはない。それに注意する必要がある。

たとえば、聖堂に安置されている聖体についてもそれがいえる。いつ教会に、「聖体訪問」に行っても、イエスの前で祈ることができる。聖体安置のおかげである。ミサは、時間が定まっているし、分かりにくい点もある。

それを考えると、「パンのかたちのもとに与えられたイエスの体」の安置には、「聖なる手軽さ」がある。いつ行っても、そこに「おられる」からである。まさに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28章20節) ことの実現だ。そのため、ミサとは別に、「パンのかたち」の聖体を顕示して、礼拝し、祝福を受ける「聖体賛美式」 (以前は聖体祝福式・ベネディクション) という儀式もある。

また、特別な祝日などに、聖体を顕示して行う聖体行列がある。それぞれ意味深い儀式であるが、教会は、それらの儀式がミサと分離しないように気をつけている。例えば、「聖体賛美式」は、その日にささげられたミサを思い起こし、その継続として行うことが求められる。そのためには、聖体賛美式のときに、当日の聖書朗読個所を読んで、黙想し、共に祈るのもよい方法である。


オステンソリウム
オステンソリウム

聖体の秘跡の3つの面をまとめるためには、最後の晩餐のイエスの言葉を想起すればよい。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」(マタイ 26章26-28節)。

「取って食べる」、「この杯から飲む」という言葉は、糧を強調するが、よく読むと、食べ、飲むことによって、キリストの体と血はささげられるのである。先に述べた病者の聖体拝領は、場所も時間も離れているが、病者はその拝領によって教会でささげられたミサと、「つなげられる」のである。

ミサは、今まで述べてきた感謝の典礼だけではない。密接、不可分に結びついた「ことばの典礼」がある。ここで言う「ことば」とは、新・旧約聖書全体である。ミサの中心であるイエスは、最後の晩餐の席上のイエスだけではない。イエス・キリストは、救いの計画とその実現であり、救いの歴史の中心である。イエスの「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3章16節)という言葉は、旧約聖書の創世記の始めから、新約聖書・ヨハネの黙示の終わりまでの聖書全体を含んでいる。その中心にイエスがおられる。

第2バチカン公会議は啓示憲章で言っている。「新・旧両約聖書の霊感の与え主、作者である神は、新約は旧約の中に隠れ、旧約は新約の中で明らかされるという具合に、賢明に計らった。なぜなら、キリストは自分の血をもって新しい契約を結んだが(ルカ 22章20節, 1コリント 11章25節参照) 、旧約聖書はすべて、福音の説教の中に取り上げられ、新約において、その充全な意味を見いだし、またそれを示し(マタイ 5章17節, ルカ 24章27節, ロマ 16章25-26節, 2コリント 3章14-16節参照) 、また (旧約) は新約を照らし、説明している」 (啓示憲章 16) 。

また、典礼憲章では、ミサを、主のからだの食卓と神のことばの食卓の二つからなるもととらえて言っている。「信者に神のことばの食卓の富を豊かに与えるために、聖書の宝庫を今まで以上に広く開かなければならない。そのために、数年を一定の周期として、聖書の主要な部分が会衆に朗読されるべきである」 (典礼憲章 51) 。 この決定に従って、現在、主日の聖書朗読はABCの3年、週日の聖書朗読はAB2年の周期で朗読されている。

ミサにおける聖書朗読・ことばの典礼は、外からくっついているものではなく、奉献と会食の感謝の典礼へと導く、大切な役割を持ったミサの部分である。このようにして、ことばの祭儀で神のことばを聞き、感謝の奉献を行い、聖体を拝領することからなるミサの祭儀は、一つのまとまった礼拝行為となっているのであり、それによって神には賛美のいけにえがささげられ、人間には完全な救いが与えられるのである。


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