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第2バチカン公会議から50年

第2ヴァチカン公会議とその後の課題

溝部 脩(みぞべ おさむ)

カトリック司教

ヨハネ二十三世は、1959年1月25日、ローマ郊外聖パウロ大聖堂において、ヴァチカン公会議開催を発表した。彼は、これは聖霊の働きだと信じて行動したのであった。それから3年を経た1962年10月11日、彼は公会議開始の宣言の中で、この公会議を「新しいペンテコステ(聖霊降臨)」と位置付けた。「母なる教会は幸せであり、喜びに踊っている」と声を弾ませた。「我々は、あたかも世界は今にも滅びようとするかのように不幸を予言する預言者たちとは一歩距離を置いている。現代人の営みを見る限り、人類は新しい秩序に向かっているように見えるが、我々はそこに神の計画が隠されていることを認めざるを得ない」。ヨハネ二十三世は、公会議はバラ色の中に始まったと感じている。

同公会議で主導的役割を果たした神学者イヴ・コンガールは次のように述べて、新しい希望の時代を夢見ている。「今日教会は世界に、諸国に、諸民族に遣わされている。これはその始まりであり、それはエルサレムではなく、ローマにおいてである。公会議は世界中に爆発するであろう。公会議にとって、これはヨハネ二十三世に予見された聖霊降臨の日なのである」。コンガールは一世紀の教会で行われたエルサレムの公会議をイメージしている。爆発的にキリスト用が、ユダヤからローマ帝国内に広がったそのイメージであろう。

50年を経て

希望に満ちた公会議の夢は、50年を経てどのように変わってきていることだろう。何となく冷めた空気が感じられるというと大げさであろうか。例えば典礼を例にとって考えてみよう。初代教会の豊かな典礼から多くを汲んで、新しい時代に魅力的な典礼を目指したはずなのに、実際は、典礼規則(ルブリカ)に固執したり、トリエント公会議のミサに逆戻りしようとしたり、ローマ典礼のラテン語の直訳に過度に神経質になったりという具合である。一致のしるしであるミサが教会分裂の原因となる不思議な現象もある。神学上の問題に関しても論議を重ねるより、どちらかといえば結論を先にもって解決とする向きがある。たとえば教会内の女性の役割とか、解放の神学とか、地方の文化に適応する試みとか、もう少し自由に討議してもよい課題ではなかろうか。

すべてを教皇に集中させようとして、その実、司教の権限でできることも制限してしまう例も見ている。コンガールが期待したことはもろくも崩れているように見える。これに加えて、還俗した司祭、修道者の数の多さ、聖職者による性的虐待など、教会が必ずしもバラ色でないことを示している。これらに対抗するために保守的な運動が教会の中枢にあり、リベラルな見方を抑えるという傾向も見られる。保守的な神学校を奨励して、教会全体が、公会議が指し示す路線とは反対の方向に動くという面白くない状況もある。

オスカー・ロドリゲス・マラディアガ枢機卿は、公会議を福音書にある、種蒔きにたとえている。蒔かれた種は公会議であり、それを受け止める人によって、それが実るか実らないかが決まるという。頑なになって教会の新しい方向性を受け入れないか、あるいは自分の思うとおりに解釈して、それが受け入れられないとこんな教会はごめんだという人たちがででくる。

教会は「旅する民」と公会議はいう。「神の国」の完成に向かって歩む民であり、常に刷新の業が必要である。公会議は終わったのではなく、今始まったばかりなのである。ベネディクト十六世は、この公会議を、中世からいい古された「教会は常に刷新されるべきもの」(Ecclesia semper reformanda est)を用いて、今回の公会議を「絶えざる刷新」(Reformatio perennnis)と呼んだ。これらの汚点のその向こうに、ヨハネ二十三世が信じる聖霊が働くのである。聖霊は、公会議を始めるにあたっても、今もそれが実現できるために働いている。要するに公会議の精神を生きる人に聖霊が働くのである。それを通して公会議の実りがある。

今求められるもの

公会議が終わって50年、今求められるものは何なのか。まず第一は、健全な楽観主義であろう。困難な現状を百も承知の上で教会の未来に大きな希望をかけること。多くの暗い点、汚点、醜聞が教会を揺るがせているが、それでも聖霊はより良き方向に教会を導いてくれるという信念である。

次に、教会が内に、外に開かれていくという考え方が公会議の路線であることを確認すること。公会議はすべての信徒に、自分を開くという大きな課題を課したのである。この開くという路線を実現するためには、公会議が打ち出した事項に納得して行動することであろう。諸宗教対話、キリスト教一致運動、現代社会の必要に答える、とくに貧しさに挑戦することが優先課題であること、これらを敏感に受け止めてそれらに応えていくという姿勢を、信徒の一人一人に求めているのである。これらに関して“してもらう”から“自ら行う”、“傍観者”から“当事者”に代わっていくことが今は求められている。

参加と言うことで、教会の組織そのものにも改革が及んでいる。教区の宣教司牧などが一番良い例である。根底にある考え方は、司祭、信徒が司教を支えて教区を運営するという見方である。紙数の関係で、これ以上組織について語ることはできないが、組織の改革は上から決定する従前のやり方からの転換を求めている。共に協議して決議、実行していくやり方である。司教の権威、司祭のあり方などにもメスを入れているのが公会議である。

以上述べたことが実現するには、対話と自由な雰囲気が必要である。多くは未解決な問題を抱えているのであって、自由な雰囲気の中で今後討議すればよいと思う。解放の神学の問題でもあるし、文化受肉に関する問題でもあるし、教会内における女性の役割のことなどでもある。少し自由に発言させ、時とともに多くのことは解決するという広い視野が必要である。


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