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日本のカトリック教会の歴史
4.徳川家康とキリシタン
豊臣秀吉の死後、徳川家康が政治の主導権を握り、約300年続く徳川幕府の時代へ入ります。
ウィリアム・アダムスとカトリック教会の対立
南蛮船
慶長5年(1600)に、オランダ船 リーフデ号が、豊後に漂着しました。この船の航海長のイギリス人、ウィリアム・アダムスを、そのころ豊臣政権の五大老を努めていた徳川家康は、家臣として召し抱えました。
当時、オランダ、イギリスはプロテスタント国で、カトリックに対して敵対心を持っていました。
日本のカトリック教会は、アダムスらが家康に対して、カトリックに対して誤った教理を吹き込まれるのを恐れ、アダムス以下 リーフデ号の乗組員を処刑するように家康に申し出たり、一人の神父を派遣して彼に日本を去るように説得したりしました。さらに最終手段として、プロテスタントからカトリックへと改宗するように迫りましたが失敗に終わりました。
これらのことにより、カトリック宣教師とポルトガル人に対するアダムスの敵意は、折りあるごとに家康の心に疑惑の種をまくこととなりました。
カトリック教会からの挑発に耐え続けたアダムスが、反撃する機会が訪れました。慶長16年(1611)に来日したスペイン使節が、諸港を測量しました。その目的を家康から訪ねられたアダムスは、「エスパーニャ(スペイン)は、まず*1托鉢修道士たちを派遣し、彼らの後で兵士たちを送り込みます。このようなやり方で外国を支配下に入れていきます。そのために各港にどの船が入港できるか知るためです。」と、すべての宣教師を国外に追放すべきであると答えました。
家康の初期の政策
政権を握った徳川家康は、初期のころキリスト教の布教活動を許可・黙認しました。それは、ポルトガルやスペインとの貿易を推進するためでした。以前から活動していたイエズス会をはじめ、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会の宣教師が来日するようになりました。
家康は、外交上の必要からこれらの活動を黙認していましたが、秀吉の禁教令を取り消すことはせず、キリスト教を受け入れる意向は全く持っていませんでした。
教会の発展
この後、キリスト教禁教令が出されるまでの約10年間は教会がいちばん充実し、発展した時代でした。
長崎では、慶長6年(1601)、イエズス会の教会が再建されました。そしてこの教会で、日本で最初の2人の司祭が叙階されています。市民の手で行われた社会福祉の活動も目立っていました。1583年に創設された、“ミゼリコルディアの組”は、すでに一つの病院のほか、別の施設も経営し、貧しい人、困っている人に経済的、精神的援助を与えるなどの活動を実践しました。
大村、有馬、天草もキリスト教国のようになりました。特に、有馬の教会は日本で一番よく育った教会でした。*2セミナリヨが長年、有馬にあったので信者の教育にも大きな影響を与えていました。セミナリヨの生徒は100人を越えていましたし、あちこちの教会の*3同宿たちも時々黙想や勉強のために、セミナリヨに戻っていました。
また、京都の教会には日本で最初の修道女会ができました。キリシタン比丘尼(びくに)と呼ばれたこの修道女たちは、熱心な祈りの生活をするとともに、宣教師たちの入り込めない上流婦人のあいだに入って宣教しました。
禁教への道
キリシタンを黙認していた家康でしたが、このままにしておいてはいけないと危機感を抱いたと思われる事件が起こりました。その事件をご紹介しましょう。
マードレ・デ・デウス号事件
慶長13年(1608)、キリシタン大名として知られる有馬晴信の朱印船が、マカオに寄港しました。その際、晴信の家臣である朱印船乗務員とポルトガル人が争い、60余名の日本人が殺害される事件がありました。
翌年、この事件に関与したアンドレ・ペッソアが、通称マードレ・デ・デウス号に乗って長崎に来航し、家康に釈明しました。朱印船の生き残った乗組員から事件の顛末を聞いた長崎奉行 長谷川左兵衛は、家康の前で彼らの弁護者となりました。
家康は、有馬晴信に命じてペッソアを召喚させようとしましたが、ペッソアはこれに応ぜずデウス号に乗り込み出帆しようとしました。これに対し、有馬晴信は、長谷川左兵衛らとデウス号を包囲攻撃し、4日目にデウス号は沈没しました。
岡本大八事件
このデウス号攻撃に働いた晴信は、豊臣時代に失った領地を、もう一度有馬領に戻したいと思っていました。
そんな折りに、家康の側近 本多正純(ほんだ まさずみ)の与力 岡本大八が、有馬氏の旧領を、家康が デウス号事件の恩賞として晴信に与える意向があると、偽りの話を晴信に持ちかけました。
大八はキリシタンであり、デウス号事件の時には長谷川左兵衛の配下にいたため晴信は彼を信用しました。晴信は、多額の賄賂(わいろ)を大八に贈り、あっせんを依頼しました。しかし、その後不審を抱いた晴信が直接、本多正純に問い合わせたところ、大八の虚偽が発覚し、贈収賄事件が明るみに出ることになりました。
慶長17年(1612)、岡本大八は処刑され、有馬晴信は甲斐(かい)国に流され、後に処刑されました。
この事件の当事者がキリシタンであったため、これまでキリシタンを黙認していた家康も、このまま放置する事はできないと感じたに違いありません。
岡本大八事件の後、キリスト教禁止を表明し、その摘発を行いました。その結果、旗本のジョアン原主水(はら もんど)や、大奥の侍女*4ジュリアおたあ などが改易(かいえき)・追放処分となりました。
迫害の始まり
雪の聖母
慶長18年(1614)、全国に「キリシタン禁令」と、「宣教師の国外追放令」が発布されました。これにより、幕末さらに明治政府までに引き継がれる長く厳しい迫害の幕が切って落とされました。
バテレンの大追放
翌 慶長19(1615)年、日本各地にいた外国人宣教師、*5高山右近などの有力なキリシタン、日本修道女たちは長崎へ送られ、400人あまりが数隻の船に分乗して、マニラ・マカオに追放されました。
この中の何人かの宣教師は、日本に潜伏、または再潜入し命を懸けて宣教活動を行いましたが、そのほとんどは殉教しました。
- *1 托鉢修道士
- キリストの福音の教えに従って、個人としても修道会としても財産に対する所有権を放棄し、愛と奉仕の生活に励む修道会に属する修道士。生活に必要なものが与えられないときには施しを願うためこの名がついた。
フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会などがある。 - *2 セミナリヨ
- 現代で言う小神学校で中学・高校にあたる。イエズス会の宣教師の養成機関。
宣教師のほかに、音楽士、絵師、伝道士も養成した。
天正7年(1579)有馬に、日本初のセミナリヨが建てられた。
最初の入学生が22人。2年後には遺欧使節となる千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの3人もその中にいた。 - *3 同宿(どうじゅく)
- 元来は仏教用語で、イエズス会のヴァリニャーノ師によって、それに似た存在のものに対する呼称となった。
その役割は、外国人司祭のための通訳、キリシタンや異教徒に対する説教と教理の説明、ミサ聖祭のなどの聖務がある。 - *4 ジュリアおたあ
- 韓国出身のキリシタン。
秀吉の朝鮮出兵の際、少女だったおたあはキリシタンである小西行長によって保護され、行長の妻の影響でキリシタンとなり、ジュリアという洗礼名を受けた。関ヶ原の戦い以降は徳川家康の大奥に仕えたが、慶長17年(1612)の禁教令による摘発によって、伊豆の神津島に流刑になった。
現在、毎年5月には神津島で、神の愛を証し続けた おたあを記念して、日韓合同でジュリア祭が行われる。 - *5 高山右近
- (2.天正少年遣欧使節 参照)