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日本のカトリック教会の歴史
5.キリシタン迫害の時代へ
鎖国とキリスト教禁令
徳川家康
江戸時代は一貫して*1鎖国政策が採られ、貿易港が制限されていたというイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。ところが徳川家康の存命中は、明確に貿易港が制限はされていませんでした。
家康の死後、二代将軍の秀忠(ひでただ)によって、1616(元和2)年、キリスト教禁令と、ヨーロッパ船の来航を長崎と平戸の2つの港に制限する、二港制限令が出されました。この二港制限令の前提には、禁教政策がありました。
秀忠政権は二港制限令を発してから、キリスト教弾圧政策を次々と実行していきました。翌年(1617)には長崎住民に対し、宣教師を宿泊させるのを禁じたり、各地に潜伏していた宣教師やその関係者を摘発して処刑したりしました。
1619年には、将軍秀忠が伏見を訪れたときに、牢内にいたキリシタンと彼らに関わりのあった信者たちを みな処刑するようにと命じました。京都の七条河原で、幼い子どもを含む52名の信者が火あぶりの殉教をとげました。
このような厳しい状況にある日本の教会に向けて、当時の教皇パウロ5世から、励ましの言葉と、ジュビレウム(聖年、あるいは他の理由で教皇から発表される大赦の年)の恵みが贈られました。それに対してキリシタンたちは、1621年、たいへん美しく書状をしたためて教皇に送りました。教皇の心遣いに礼を述べ、殉教の覚悟を示しながら、キリストと教会への忠実を約束しました。この手紙は、今もバチカン図書館に保存されています。
このように厳しい日本の教会の状況を、さらに厳しくしてしまう事件が起こってしまいました。
平山常陳(ひらやま じょうちん)事件
1620(元和6)年、イギリス・オランダの船隊が一艘(そう)の*2朱印船を拿捕(だほ)し、平戸に入港しました。拿捕した理由は、宣教師と思われるヨーロッパ人が乗船していたためです。アウグスティノ会のスニガ神父と ドミニコ会のフローレス神父は、スペイン商人として日本に潜入しようとしていたのでした。
宣教師が乗船していた朱印船の積み荷は、イギリス・オランダのものにすることができるため、イギリス平戸商館は幕府に、宣教師朱印船同乗の件を訴えました。
平戸領主 松浦隆信と長崎奉行 長谷川権六は、スニガとフローレスに対して厳しい取り調べを行いましたが、反対にスニガと、朱印船の船長*3平山常陳からも長崎奉行に対して、イギリス・オランダの海賊行為が告訴され、事態は長期化しました。
結局2年後に、スニガもフローレスも自白に追い込まれ、この両名と平山常陳は、火あぶりの刑に処せられ、他の朱印船乗組員12名も斬首となりました。
この事件以降、幕府のキリシタンに対する不信感は一層強まり、大迫害がはじまりました。
長崎の大殉教
大殉教絵図 ジェズ教会
622(元和8)年の8月には、秀忠は、鈴田と長崎の牢にいる、すべての宣教師、信者を処刑するように命じました。
長崎の教会関係者55名が処刑された「元和の大殉教」です。
江戸の大殉教
江戸では、徳川家光が3代将軍の座についた1623年、12月にイエズス会のアンデリス神父や ジョアン原主水を含む50名が、その20日後には、女、子ども37名が、辻の札刑場で処刑されました。「江戸の大殉教」と言われているものです。
この前後に、江戸では300名以上が捕縛され、この年だけで400?500名が殉教したと伝えられています。
これらの大殉教から、各藩のキリシタン弾圧が強化されていきます。
踏絵について
踏絵
キリスト教が禁止された江戸時代に、キリシタンでないことを証明するために、キリストやマリアの絵像を踏むことが行われました。これを踏絵(ふみえ)、または絵踏(えぶみ)と言います。
踏絵板は、初期にはキリシタンから没収した聖画像やメダイなどが用いられました。しかし、それらが破損したり、踏絵が制度化されて踏絵板が不足するようになると、長崎奉行所は、真鍮(しんちゅう)で踏絵板を作らせました。現在その踏絵板が、東京国立博物館に収蔵されています。
キリスト教棄教の強要、またその証しとして、1628年より長崎ではじめられました。やがてキリシタンが数多く存在した九州では、各地で踏絵が行われるようになりました。
踏絵が制度化されたのは九州だけでしたが、宣教師の潜入や*4潜伏キリシタンの摘発などがあったような場合は、九州以外での地でも行われることがありました。
最初、*5転びキリシタンに実施された踏絵は、1660年代になるとキリシタン摘発のために全領民を対象として、制度化されていきました。
キリシタンであるなしに関わらず実施されるようになると、だんだん年中行事のようにもなっていきました。長崎では毎年、正月に町順で行われるようになり、丸山の遊女が晴れ着を競う場になったりもしました。
キリシタンであるなしに関わらず実施されるようになると、だんだん年中行事のようにもなっていきました。長崎では毎年、正月に町順で行われるようになり、丸山の遊女が晴れ着を競う場になったりもしました。
1858(安政5)年、*6日米修好通商条約の締結によって、踏絵制度は廃止されました。
- *1 鎖国
- 1633-1639(寛永10-16)年に、3代将軍 徳川家光から 5回にわたって発布された、対外関係に関する法令を、一般に鎖国令という。その内容は、キリシタンの禁止を柱とし、段階的に、日本人の海外渡航の禁止、外国船の貿易統制、在留日本人の帰国の禁止、日本人とポルトガル人の間にできた混血児の海外追放、ポルトガル船の来航禁止などを規定している。この鎖国令によって、イエズス会と緊密に結びついていたポルトガル貿易を一切断念し、キリシタン宣教師の進入防止を企画した。
1859(安政6)年、安政条約(江戸幕府が、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの各国と結んだ、修好通商条約)が発効されるまでの、226年間続いた。 - *2 朱印船
- 江戸幕府から、異国渡海朱印状といわれる、外国向けの特定の渡航証明書・船籍証明書を与えられた船舶。
1601(慶長6)年から、1635(寛永12)年に日本船の海外渡航が全面的に禁止されるまで、日本からは、銀、銅、鉄、硫黄、陶器、漆器、刀剣類などを輸出し、生糸、絹織物、鹿皮、鮫皮、鉛、砂糖などを輸入した。 - *3 平山常陳(?-1622)
- 堺出身のキリシタン商人。霊名ディアス。京都において受洗。
- *4 潜伏キリシタン
- 隠れキリシタンともいう。1614(慶長18)年の禁令によって、キリシタン取り締まりは全国的に施行された後、表面上は仏寺檀家となりながら、キリシタン信仰を保持し続けて来た人たちを言う。彼らが信心会の伝統のもとに五人組制と巧みに結合し地下組織を形成したことが潜伏を可能にした要因と認められる。
- *5 転びキリシタン
- キリシタン信仰を捨てた者を言う。聖職者の場合は、転びバテレンなどと称した。転び者は請人手形と起請文などを書かせて釈放したが、親兄弟から子孫に至るまで登録、管理下におかれた。
しかし、表面上は転び、檀那として宗門寺に属したとはいえ、潜伏キリシタンとして幕末まで信仰を伝え、1865(慶応1)年以来、いわゆる キリシタンの復活に至ったことは特筆にあたいする。 - *1 イエズス会
- 日本長崎役所において踏絵の仕来り(しきたり)は既に廃せり。