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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2007年2月5日


水仙

今日は今年最初のアレオパゴスの祈りです。明日2月4日から、「殉教者を想い、ともに祈る週間」が始まります。2月5日には、日本26聖人殉教者が祝われます。今回は、殉教者を思い、彼らがいのちをかけて伝えたメッセージに耳を傾け、祈りたいと 思います。

1981年2月26日、教皇ヨハネ・パウロ2世は、長崎の西坂殉教地に巡礼者として訪れ次のように話されました。


「この殉教者の記念碑の前で祈りと反省のときを過ごしながら、わたしは彼らの生涯における神のお恵みの秘義を深く味わい、彼らがわたしと全教会に語りかけることば、数百年を経て、今なお生きている彼らのメッセージを聞きたいと思います。  キリストのように、彼らは犯罪人の処刑場にひっぱられてきました。キリストのように、彼らは、わたしたちがみな神なる父の愛と御子の救いの使命、そして決して欠けることのない聖霊の導きへの信仰を持つようにと、生命をささげてくれたのです。  1597年2月5日、西坂で26人の聖殉教者が十字架の持つ大きな力の証となりました。実際、彼らは多くの殉教者の初穂となったのであり彼らの後に続いた数多くの殉教者は、自分たちの苦しみと死によってこの土地をさらに聖なる土地としたのです。」

(沈黙)

はかりしれない神の恵みをたたえて歌いましょう。

『典礼聖歌』No.183 「われらはシオンで神をたたえ」①、③

後ろにローソクを準備しました。私たちひとりひとりの願いとともに さまざまな苦しみの中にある人びとと、今なお信仰のために迫害されている人びとのことを思いながら、ローソクを祭壇にささげていのりましょう。祭壇のかごの中から「みことば」をいただいて席にお戻りください。

ヨハネ・パウロ2世は、続けて述べられました。「彼らはキリストの教えの本質である真福八端の精神を具現したのである。彼らを仰ぎみるすべての人に、神への無私の愛と隣人への愛にもとづいて、自分の生涯をつくりかえるよう刺激をあたえているのです。」キリストの教えの本質である真福八端とはどんなおしえなのでしょう。新約聖書のマタイ福音書ハ、キリストがガリラヤの丘で人々に話された真福八端を書き記しています。イエスの話を聞きましょう。

『典礼聖歌』No.388 「ガリラヤの風かおる丘で」①

朗読:マタイによる福音(5章1節~12節)

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
    そこで、イエスは口を開き、教えられた。
    「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
    悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
    柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
    義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
    憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
    心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
    平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
    義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
    わたしのためにののしられ、迫害され、
    身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
    喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
    あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

この真福八端を生きた殉教者のなかに15歳の少年聖トマス小崎がいます。聖トマス小崎の略伝をご紹介しましょう。

聖トマス小崎は一見粗野に見えましたが、彼の魂は彼が生まれた伊勢の真珠のように美しく輝いていました。弓矢作りの聖ミカエル小崎の息子で、父と一諸にフランシスコ会の雰囲気の中で育ち、そこで、霊的指導を受けるようになり、教理の研究においても修得においても著しい進歩を示しました。後に大阪の修道院で生活し、サン・フェリペ号の到着後、修道士に連れられて京都にいったとき逮捕されました。殉教後、父聖ミカエルの袖の中に、血に染まった一通の手紙があったのが発見されました。それは15歳の少年トマスが、愛する母にあてて、強い決心をもって深夜、涙ながらに書いた最後の手紙です。私たちはこの短い手紙によって、純真無垢な少年トマスの神に対する絶対敵な信頼、父母に対する深い愛と兄弟を思いやる真のあいを知ることができます。まっすぐで大胆な性格の少年は、かざりけのない誠実さをもって、神に自分自身を奉献したのです。

聖トマス小崎


 「母上様、聖主のお恵みに助けられながら、この手紙をしたためます。罪標に記されている宣告文にありますとおり、わたしたち神父様以下24名の者は、長崎で十字架につけられるようになっています。どうかわたしのことも、父上ミカエルのことも、何一つご心配なさらないでください。パライソ(天国)で母上様のお出をお待ち申しております。たとえ神父様がいらっしゃらなくとも、母上様、臨終のときに、深い信心をもって罪を心から痛悔し、イエス・キリスト様のお恵みを考え、それをお願いしますならば、救いを全うすることができます。またこの世のすべては夢のごとく消えうせてしまうことを思い、パライソの永遠の幸福をゆめゆめ失うことのないようにお心がけください。人が母上にいかなることをしようとも、忍耐し、かつすべての人に多くの愛をお示しください。それからとりわけ弟マンショとフィリッポに関しては、彼らふたりを異教徒の手にゆだねることのないようによろしくお取り計らいください。わたしは母上様のことを聖主にゆだねます。何とぞ知人の方々すべてによろしくお伝えください。

 母上様、アダムもデウスさまに罪を犯しましたが、痛悔と償いを行って救いを全うしました。何とぞ犯した罪にたいして完全な痛悔を起すのを忘れないでください。重ねてお願い申し上げます。なぜなら痛悔だけがいちばんたいせつだからです。
                              安芸国三原牢獄より 陰暦12月2日

『典礼聖歌』No.98 「しあわせな人」①

秀吉の時に始まったキリシタンへの迫害は、徳川家康、家光とおよそ100年におよび続きます。迫害の理由については、高山右近をはじめとするキリシタン武将たちがひきいるキリシタン軍団が、戦場にあっても一糸乱れず、「血を分けた兄弟以上の団結」をみせて活躍したことにあるとも言われています。天下統一を目指して足場をかためていた秀吉にとって、肉親よりも強い団結をみせるキリシタンたちに不安を感じた「権力者の不安」も原因の一つとみられています。明日からはじまる「ペトロ岐部と187殉教者は、1630年代の厳しい迫害の時代に殉教した日本全国の老若男女、とくに、模範となる家庭人や代表的な司祭などです。そのなかからペトロ岐部についてすこ師ご紹介いたしましょう。

ペトロ岐部は、1587年大分県国東郡岐部に産声をあげました。当時豊後は、秀吉軍が九州に進入した動乱の中にありました。ペトロは信心深い父母に育てられ、肥前有馬のセミナリオで学びました。十代で基礎学力をしっかり身につけ、規則正しい生活をとおして、将来の自分の進路を決定する土台をつくりました。19歳のときに聖職者になる決心をしました。しかし、ペトロ27歳のとき追放令のため日本を去らなければなりませんでした。司祭への大きな夢を抱いたペトロは、宣教師とともにマカオへ追放されます。ここでも司祭への道が閉ざされたペトロは、船でインドへ向かいます。インドでも受け入れてもらえず、ローマへ行く決心をしました。陸路パキスタン、イラン、イラク、パレスティナを経てローマまで歩いて行ったのです現代でも驚異の旅です。ペトロ、33歳のときローマで司祭に叙階されました。

ペトロ岐部神父は、東洋・日本への熱い宣教の夢を心に抱いてイエズス会に入会しました。そのとき書いた調書のなかに「わたしは、自分の召しだしに満足しています。そして自分自身と同胞の救いのために前進しようという大きな希望を抱いています」とラテン語で書かれた美しい文章がのこっています。

岐部神父は、深い霊性を宿し、神への燃えるような情熱と全き信頼を持って、船で日本へ向かいました。途中で4回も難破し、ようやくたどり着いた日本は迫害下にありました。9年におよぶ潜伏活動の後、仙台領内で捕らえられて江戸に護送されました。江戸では将軍家光、じきじきの取調べを受けたのち、江戸小伝馬町ノキリシタン牢屋敷中庭で逆さつるしの激しい拷問を受け1639年7月殉教しました。ペトロ岐部神父52歳でした。

「友のために自分の命を捨てる、これにまさる大きな愛はない。」(ヨハネ15.13)
「もし一粒の麦が地におちて死ななければ、それはひとつぶのまま残る。しかし、死ねば、豊かに実をむすぶ。」(ヨハネ12.24)

多くのキリシタンは一粒の種となって殉教していきました。「殉教者たちの英雄的な証しは、日本の教会の過去を飾るだけでなく、今の日本のキリスト信者の歩むべき道と、将来の使命と約束をも示しています。」(ヨハネ・パウロ2世)2007年、今年は長崎でペトロ岐部と187殉教者の列福式が予定されています。殉教者たちの尊い命を懸けた信仰と愛をお受けくださり、聖なるものとされた父である神に感謝と賛美をささげ、殉教者たちをたたえていのりましょう。私たちが、かれらから日常の信仰せいかつの模範にならうことができますように。

『カトリック聖歌集』No.407 「おおしくも」①~②

これでアレオパゴスの祈りを終わります。

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