アレオパゴスの祈り
アレオパゴスの祈り 2007年10月8日
神の名はあまねく世界に輝き、
その栄光は天にそびえる。
ほめよ神に仕える者よ、神をほめたたえよ。
神の名に賛美、今よりとこしえに。
日の昇るところから沈むところまで、
神の名はたたえられる。
神はすべての民にあがめられ、
その栄光は天にそびえる。
(詩編113)
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。
主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民。
主に養われる羊の群れ。
感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌を歌って主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。主の恵みは深く、慈しみはとこしえに。
主の真実は代々に及ぶ。 (詩編100)
10月は、「道、真理、いのちである師イエス」にささげられた月で、10月の最後の日曜日には、「師イエスの祭日」を祝います。今晩のアレオパゴスの祈りでは、十字架の死にいたるまで御父に忠実に従われた、師イエス、「仕えられるためではなく、仕えるために来た」と徹底的に奉仕の道を生きられた彼の模範に触れ、みことばを聞きながらご一緒に祈っていきたいと思います。
イエスは福音書の中で、次のように言っておられます。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10.42~45)
イエスが語ってくださっているこの言葉に注目しましょう。イエスは偉くなりたい人は、人を支配し権力を用いるのではなく、すすんで人に仕えるようにと招いています。
今、しばらく、わたしたちの心を神様に向けて落ち着け、準備しましょう。主が私たちの心の目、心の耳を開いてくださいますように。この静けさの中で、祈りをとおして、神様からの語りかけや働きかけを敏感に気づいていくことができますように。
(沈黙)
歌のプリント「道・真理・命の主よ」①②③
イエスが身をもって「仕えること」を示してくださったことを伝えるヨハネ福音書を聞きましょう。
ヨハネ13.1~15
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時か来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、このうえなく愛し抜かれた。夕食のときであった。すでに悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
イエスは、父がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは『主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか』と言った。イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる。』と言われた。
ペトロが『わたしの足など、決して洗わないでください』と言うと、イエスは『もしわたしが、あなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。『主よ、足だけでなく、手も頭も』イエスは言われた。『すでに身体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない』イエスは、ご自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、『皆が清いわけではない』と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。『わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを【先生】とか【主】とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと模範を示したのである』」
(沈黙)
ヨハネ福音記者は、この場面を非常に荘厳に描いています。先生であるイエスが、弟子たちの足を洗い、仕える模範を示されました。ただ、あなたがたも足を洗い合いなさい、ということを言うだけなら、こんな荘重な書き方や、不思議な場面は必要なかったでしょう。この場面の奥には、神の深い愛の神秘があります。それがはっきり表現されているのは、イエスとペトロの対話のところです。イエスがペトロに分かってほしかったこと、与えたかったこと、そして実際にそれらをお与えになったイエスのみ心を知るようわたしたちも招かれています。
イエスは、この世から父のもとへ移る大切な自分の「時」が来たのを悟って、弟子たちを極みまで愛し、その愛をお示しになりました。だれでも最後だというときには、自分の最愛の人に、自分の最高のもの、これだけは分かってほしい、ぜひ受け取ってほしいことを残していきます。そして最後のわざを成すのです。イエスはこの大事な瞬間に何をされたのでしょうか。
「夕食のとき……食事の席から立ち上がって」とあります。夕食の途中、唐突です。ただならぬことが起ころうとしているということが弟子たちの前に強烈に印象づけられます。異常さを思わせるほど、場面は不思議な荘重さをもっています。このような仕方によって、イエスは弟子たちに何かを示し、与えたいのです。
当時の社会では、客を迎える主人が洗足用の水を用意するのはふつうでした。しかし、通常客は自分で洗ったのであって、他人の足を洗うのは奴隷の仕事だったのです。ただときとして、先生の足を弟子が洗うことはありました。しかし、どうみても、イエスのこの行為は不思議で、弟子たちにとっては思いもよらぬことでした。食事の途中でもあります。イエスを裏切ったユダもいます。
(沈黙)
イエスの「時」はついに来ました。その大事な「時」にイエスは「父がすべてをご自分の手にゆだねられたことを知って」その行為をされました。したがって、このときに、イエスは神がどういうかたか、しっかり表されたというわけです。今のこのイエスにおいて、まさに神が表れています。このことが大事です。つまり、イエスが父のもとからこの世に来られたのは、まさに弟子たちの足を洗うためであったのです。神はこういうかた、弟子の足を洗うかた、仕え尽くすかた、自分の命を投げ出して愛し尽くすかた、なのだということ表したかったのです。弟子たちの足下へ、裏切り者のユダの前にもへりくだって足を洗われたのです。
ここで使われている「上着を脱ぎ」の「脱ぐ」は「ティセーミ」というギリシャ語で、ヨハネ福音書では、「命を捨てる」をいう意味でも使われています。ですから、まずこれを受け入れなさい、そうでなければあなたとわたしは関係がなくなるとペトロに言われたのです。このイエスの洗足を、このイエスの愛を受け入れることによって、弟子は本当の弟子になっていきます。
神は人の足を洗われる神、まず、そのような神の愛を受け入れなさいと、主は言われます。そうして真の弟子となり、キリストと固く結ばれてキリストの友となります。その結果、わたしたちも他人の足を洗うことができるようになり、そしてそれができたとき、真にキリストの心が分かるのです。
(『祈る喜び』より抜粋、牛尾幸生著 女子パウロ会)
(沈黙)
『平和を祈ろう』No.89 「主にならい」①②③
イエスが人々とともに歩まれた道は、最後まで奉仕の道でした。この道を示してくださったイエスにわたしたちも従い、互いに足を洗い合う者となれますように。
パウロ家族の祈り p.175 ②
師イエス、
御父の最愛の子であるあなたを礼拝します。
あなたは御父のもとに行く唯一の道です。
わたしたちの模範となってくださったことに感謝します。
あなたは崇高な愛の模範を残し、
地上では、あなたに従い、
天の国ではあなたとともにいるよう人々をお招きになりました。
あなたの地上の生活のさまざまな時期を観想し、
あなたの教えを素直に受け入れ、あなたの歩まれた道をたどり、
自分自身から解放されて、ただみ旨だけを求めることができるよう、
わたしたちをあなたのもとに引き寄せてください。
終わりの日にはあなたと似た者となり、
天の国では永遠にあなたとともにいることができるように、
わたしたちの希望を強めてください。
道・真理・いのちであるイエス、
わたしたちをあわれんでください。
お手元の聖師イエスのイコンのハガキをご覧ください。
Ⅰ扉のところに立ち、わたしたちに出会うために、待っておられるイエスを見ましょう。
右手の3本の指を立て、交わりに招き入れ、聞くように、話しかける人のポーズをとっておられるイエスの姿を見ましょう。
「わたしは道であり真理であり、いのちであり、また、扉である」
「わたしのところに来て、学びなさい。……そしてすべての人々をわたしの弟子にしなさい。」
「わたしをとおらなければ父のもとに行くことはできない」
Ⅱ次にイエスの周り全体に輝いている光を見ましょう。
白い服と「わたしは道であり、真理であり、いのちである」とラテン語で書かれている白い本を見ましょう。
わたしを見る者は父を見る。
わたしと父とは一つである。
父がわたしを愛したようにわたしもあなたがたを愛した。
これが、イエスからのメッセージです。わたしたちが信じ、伝える福音です。
Ⅲ今度は、イエスの着ておられる赤いマントを見ましょう。
赤は人間性、愛、血、自己贈与を意味しています。
明るく光輝いている十字架、イエスの頭の回りにある光を見ましょう。
これは、復活と栄光の師イエスを表しています。
「わたしはいのちである。わたしは、すべての人々がいのちをもっとゆたかに得るために来た。」
Ⅳ北イタリア、パウロ家族が創立された町アルバの上に足を置き、地球儀の上に立っておられる師イエスを見ましょう。
父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを世に遣わす。
Ⅴ最後にサンダルをはいて歩き出しておられる師イエスを見ましょう。サンダルは福音宣教者のシンボルです。
全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
「約束の地」への歩みをとおして、今日の人々の渇きに応えるために、師イエスとともに歩みましょう。
恐れてはいけない。毎日わたしはあなたたちとともにいる。
『カトリック典礼聖歌集』No.27 「全世界にいって」①④
これで今晩のアレオパゴスの祈りを終わります。