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アレオパゴスの祈り

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アレオパゴスの祈り 2008年4月5日


桜

きょうこそ神が造られた日、
      喜び歌、この日をともに。
  恵み深い神に感謝せよ。
    そのあわれみは永遠。
  イスラエルよ、叫べ。 
    神のいつくしみは絶えることがない。
きょうこそ神が造られた日、
      喜び歌、この日をともに。
  神の右の手は高くあがり、
    その右の手は力を示す。
  わたしは死なず、わたしは生きる。神のわざを告げるために。
きょうこそ神が造られた日、喜び歌、この日をともに。
  家造りの捨てた石が、隅の親石となった。これは神のわざ。人の目には不思議なこと。
きょうこそ神が造られた日、喜び歌、この日をともに。(詩編 118)

       ・・・・・・・・・

全地よ、主に向かって喜の叫びをあげよ。喜祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。
主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。
感謝の歌を歌って主の門に進み 賛美の歌を歌って主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。主は恵み深く、いつくしみはとこしえに。(詩編100)

 

今年は、3月23日に復活祭を迎え、カトリック教会は、新しく洗礼を受けた兄弟姉妹とともに、主のご復活の喜をたたえて祝っています。復活とは、キリスト教の中心になる出来事です。キリスト教の信仰は、復活への信仰で、イエスの復活がなければ、キリスト教は存在しません。イエスの復活は、新約聖書で四つの福音書全部に書かれていますが、実際にその瞬間に起こったことを見た人は、誰もいません。イエスの復活が事実であったことは、復活したイエスに出会った弟子たちの証言によります。

今晩のアレオパゴスの祈りでは、聖パウロのコリントの教会への手紙で、パウロがキリストの復活についてのべている箇所と、明日の復活第三主日の福音で読まれる、ルカ福音書のエマオの物語をご一緒に見ていきましょう。

イエスの復活の喜をともに祝うため、わたしたちをここに集めてくださった神に感謝をもって、ローソクを祭壇にささげましょう。祭壇の上に置いてあるハガキのご絵を一枚ずつお取りになって席へお戻りください。

コリントの信徒への手紙 1 15.12~22

キリストは死者の中から復活したと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。
死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

(沈黙)

『祈りの歌を風にのせ』p.40 「主はよみがえられた」(2回繰り返す)

ルカによる福音 24.13~35

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましが、遺体を見つけずに戻ってきました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべて信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスはともに泊まるために家に入られた。一緒に食事の席についたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

『典礼聖歌』No.388 「ガリラヤの風かおる丘で」 ① ④

場面は、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオへ行く途中です。エマオが現在のどこの村に位置するのかは論議されていて、はっきりと分かっていません。六十スタディオンは、距離にすると約12キロくらいだと言われています。自分たちの希望を打ち砕かれ、挫折した二人の弟子たちが、たぶん故郷に帰ろうとしていたのでしょうか。“二人は暗い顔をして立ち止まった”とあります。人生には、失ったものだけに執着すると、動きが取れなくなって、いつまでも痛みの中に留まり続け、新しい可能性を切り開くことができなくなります。この二人の弟子たちの心も大きな悲しみで閉ざされていたのだと思います。

イエスは、そんな二人の弟子たちを見て、“ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべて信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。”と嘆き、閉ざされた心の扉を開かせようと働きかけられました。ご自分が教えられた聖書のことばをよりよく理解させ、苦しみの極みをとおって新しいいのちへの道に入られたイエスご自身の体験を語ってくださいました。

闇と死のどん底にある現実の中にいるときでも、闇が闇でなく、死が死でないもう一つの現実があることに気づかせてくださいました。イエスの復活は、弟子たちに新しい尺度を教えているのです。どんなに深い闇や十字架が襲ってきても、いのちへの道を見つける目を与えられたのです。

イエス

わたしたちは、この物語をとおして一つのことを教えられます。その意味は、復活のイエスがいつもわたしたちと一緒に歩んでくださる方だということです。実際に死を体験し復活してもう永遠に死ぬことのないいのちをもっておられるイエスが、ともにいてくださるのです。

しばらく祈りましょう。

ローマの信徒への手紙 6.8~11

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことはない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
 このように、あなたがたも自分の罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

『祈りの歌を風にのせ』p.58 「喜べ アレルヤ」 ①

主の復活の主日から復活節の50日間、毎日唱えられるアレルヤの祈りをキリストの母である聖母マリアとともにご一緒に祈りましょう。

アレルヤの祈り

 神の母聖マリア、お喜びください。アレルヤ。
 あなたに宿られた方は。アレルヤ。
 おことばどおりに復活されました。アレルヤ。
 わたしたちのためにお祈りください。アレルヤ。
 聖マリア、お喜びください。アレルヤ。
 主はまことに復活されました。アレルヤ。
 祈りましょう。
 神よ、あなたは御子キリストの復活によって、世界に喜をお与えになりました。
 キリストの母、聖マリアにならい、
 わたしたちも永遠のいのちの喜を得ることができますように。
 わたしたちの主イエス・キリストによって。
 アーメン。

キリストの歩まれた道は、低く、低くへりくだり、徹底的に自分を無にして仕えることでした。これはキリストが行われた業を明らかにするだけではなく、神がどんなかたであるかを啓示しています。キリストは仕える姿のうちに神を現しておられるのです。わたしたちに存在を与える神が、わたしたちに仕えるかた、すなわち他者に余すところなく自己を明け渡し、自己を完全に開き現すかたであるということです。そうであるなら、神によって愛され、造られたわたしたちは、神がご自分を与えてくださったように、わたしも他者に自分を譲りわたすことによって本来の自己になっていくのだとわかるのです。

これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。


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