アレオパゴスの祈り
アレオパゴスの祈り 2008年12月6日
今年も12月を迎え、カトリック教会の暦では、待降節と呼ばれるキリストの誕生を待ち望む準備の期間となりました。今年の「アレオパゴスの祈り」では、パウロ年を祝う教会とともに、新約聖書の聖パウロの手紙を読み、ご一緒に祈ってまいりました。
この一年、教会の偉大な聖人であるパウロをとおして、いただいた数々の気づきやお恵みを思い起こしながら、神さまに感謝をささげましょう。
パウロ年は、今年の6月28日から来年の6月29日までの一年間と続いていますが、「アレオパゴスの祈り」では、今回をもって聖パウロをテーマにしたお祈りを終了いたします。来年からは新しいテーマでお祈りしていきたいと思います。
今晩は、パウロのテーマの最終として「アレオパゴスの祈り」の名前の由来であるアテネの町で、パウロが宣教したときのことを取り上げます。パウロにとって「アレオパゴス」での体験はどのような意味があったのでしょうか。そのことを考えてみたいと思います。
後ろでローソクを受け取り、祭壇にささげましょう。
パウロの第2回目の伝道旅行のとき、マケドニア地方のベレアでの宣教は、順調に進んで、多くの人々が信者になっていました。しかし、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレアで成果をあげていることを聞き、わざわざ押しかけて来て群衆を扇動して妨害し始めました。パウロは、この町から逃げ出さなければならなくなりました。今まで一緒に宣教していたシラスとテモテを誕生したばかりのベレアの教会に残し、付き添ってくれる兄弟たちとアテネに向かいました。アテネに着くとすぐに兄弟たちをベレアに送り返したので、パウロは、ただ独りアテネにとどまることになりました。ギリシア第一の都アテネで、パウロはさびしく心細かったことでしょう。そのとき、同伴してくれた兄弟たちに「シラスとテモテが早く自分のもとに来るように」と伝言を記しています。アテネでの宣教活動が記されている使徒言行録を聞きましょう。
使徒言行録 17.16~18.1
パウロはアテネで二人(シラスとテモテ)を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人が神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロがイエスと復活について告げ知らせていたからである。そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」
すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰あつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながらあなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物を造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの住居地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人ひとりから遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、『彼らは神の中に生き、動き、存在する』『彼らもその子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
さて、神は、このような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。
パウロの宣教の舞台となったのは、アクロポリスの丘の北西に広がっていたアゴラというところでした。アゴラは市民生活の中心部で、ここで政治、裁判、商業、祝いごとが行われていました。「すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた」とあるように、実際ここに、ギリシアのみならず諸外国から好奇心と知識欲旺盛な文人や学生が大勢集まっていたようです。
パウロは、そこで哲学者に扮して、福音を宣べ伝えようとしたのでした。毎日広場で出会う人々を相手に教えを語り、その中には、エピクロス派やストア派の哲学者も含まれていました。彼らは、パウロの弁舌に魅力を感じたようですが、知的合理主義者の彼らには、パウロのイエスとその復活に関する話は、全く理解できず、パウロをアレオパゴスの評議所に連れて行きました。アレオパゴスとは、丘の名前で、アテネ最古の会議、法廷が開かれていたところだと言われています。
彼らは、「君の教えていることが何のことなのか知りたい」と申し出、パウロは演説したといわれています。これは、パウロに対する攻撃や悪意によるものではなく、昔からギリシア人は知的問答議論で暇を費やすことを好んでいたためでした。パウロの説教は、いよいよ核心に入ります。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしは宣伝しているのです。では『お知らせしましょう』」
つまりパウロが説く神は、「あなたがた」が拝んでいるものだと言うのです。「知られざる神」とは救い主であり、天地万物の創造主であり、復活の神であり、人類を導くものであるとパウロは、説き始めました。パウロの話は、聞いていた人々の理解と全くくい違ってしまいました。ギリシア的合理主義には、超自然的理解を受け入れる用意がなかったのです。死者の復活ということを聞くと、聴衆からつぶやきが起こり、ついにはあざ笑いとなり、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言って去って行ってしまいました。こうしてパウロのアレオパゴスの説教はほとんど効果をあげることなく終わってしまったのでした。
旧約聖書をとおして救いの歴史を学ぶことのなかったギリシア人にとって、救い主が何のことかわからなかったとは当然のことと言えるかもしれません。ギリシア人は、人間には不滅の魂があることを信じていましたが、肉体の復活は常識外れのことでした。しかし、パウロにとってイエスの復活は、告げるべき福音の本質で言わずにはいられないことでした。パウロは、こうしてアテネでの予想外の反応に大きな挫折感を味わい、さびしく孤独にアゴラの町を去ることになったのです。
たしかにパウロは、多くの学者たちを納得させることができず人間の目から見るなら失敗だったかもしれません。しかし、パウロが経験したこの失敗は、光を与えました。パウロは何についても誇ることができず、自分の力では何もできないことを悟りました。彼に力を与えてくれるのは、神の働きであることを実感し、打ちひしがれていたパウロの心は、再びよみがえったのです。
後にパウロは、このときの気持ちを次ぎのように述べています。
コリント1 1.17~25
キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それはこう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』・・・・・・世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。・・・・・・ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。・・・・神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
パウロはアテネを出発して、次の宣教地コリントへ向かいました。
(沈黙)
1514年の末、教皇レオ10世は、ロレンツォ・メディチの息子、ジョバンニ・メディチの治世のとき、ラファエロ・サンツィオに、バチカンのシスティーナ聖堂に10枚のタペストリーのために下絵を描くように依頼しました。タペストリーの題材はほとんど新約聖書の使徒言行録からのものでした。その一枚が下にあるアレオパゴスで説教するパウロの画像です。
ラファエロは、アテネのアレオパゴスが、見る人の目にそれらしく映るように建物を昔風に描き、正面には、円柱に囲まれた神殿をおいています。左のほうにはアーチと浮き出し飾りのある石で、広場があるかのように古典的空間を演出しています。数段の階段によって地面から高くした場を作り、ここにアテネの人々に話すパウロを立たせます。
ラファエロは、使徒言行録の物語を文字通り再現し、テキストの記述に忠実であろうとしています。弁証法を使って熱心に議論するストア派のグループの人たち、ポーチのそばに座りこむ人、立ったままほとんど無感覚、あるいはうさんくさそうな表情でパウロの話を聞くエピクロス派の一群、また赤いマントで身を覆う人などさまざまです。
また、絵の右下に、その日パウロの演説を聴いて回心し、使徒言行録に名前が記されているディオニシオとダマリスの二人の姿も描いています。
さらに、聖書に忠実に従ったラファエロの下絵は、気をつけて見ると細かいところに特徴が出ています。エピクロス派の人たちの後ろ、円柱に囲まれた神殿の前におかれた銅像です。これは、アテネに着いたときパウロに歯ぎしりするほど激怒させた偶像の一つです。そして、ラファエロが下絵の中で、パウロと対象的な位置に描いている像は軍神マーズです。構図の二つの対極は、何か別のものを指しているかのように両手をあげたパウロと、盾を身につけ槍を持つ軍神マーズ。片方は異教文明を支える土台、他方はあらゆるものを新たにすることができる御子の復活、ユダヤ人にとってはつまずき、ギリシア人にとってはおろかと考えられたキリストの復活を説教するものです。アレオパゴスの対立する二つの世界観を象徴しています。
パウロとともに祈ってきたこの一年を感謝するとともに、これからもわたしたちが、困難や危機の中にあるとき、どんな状況の中でも、あきらめないでいつも希望をもって生きることができるよう、彼の取り次ぎによって忍耐の恵みを求めて祈りましょう。
(沈黙)
『パウロ家族の祈り』p.278 「忍耐を求める祈り」
光栄ある聖パウロ、
あなたは、キリストを迫害する者から、もっとも熱烈な使徒とされ、
救い主イエスを地の果てまで知らせるために、
投獄、むち打ち、石打ち、難船、あらゆる迫害に苦しみ、
血の最後の一滴までも流されました。
病弱、苦悩、この世の不幸を、
神のあわれみによる恵みとして受け入れる心構えを
わたしたちに取り次いでください。
わたしたちが、この世の過ぎ行く旅路にあっても、
神への奉仕を怠ることなく、
ますます忠実で、熱誠あふれる者となりますように。
アーメン。
最後にパウロの言葉を聞きましょう。
コリント1 5.9~10
わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならずわたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。
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