アレオパゴスの祈り
アレオパゴスの祈り 2014年12月 6日
教会の典礼暦では新しい年に入り、待降節を迎えました。約2000年前、ユダヤのベツレヘムで救い主イエスが誕生したことに感謝し、またこの世界の終わるとき、再びイエスが来られて、神の国が完成することを待ち望むよう、教会はわたしたちを招いています。この祈りの時間、主がわたしたちの人生の、歩みの中で、一人ひとりの心を訪れてくださったことに感謝しましょう。ヨセフとマリアのように、わたしたちのところにいらしてくださる主を、喜びをもって待ち望み、真理を求めている人、またことばにならなくても、人の力を超えた神様と出会いたいと心の中で望んでいる人々のために祈りましょう。
わたしたち一人ひとりが心に抱いている意向、亡くなった方々、祈りを必要としている人々を神様の御手にゆだねて、しばらく思い起こしましょう。
(沈黙)
お祈りしたい意向を心の中にたずさえて、ローソクをささげましょう。後ろでローソクを受け取り、祭壇にささげ、席にお戻りください。
待降節第2主日のミサの中で読まれる、マルコによる福音書を聞きましょう。(マルコ1.1-8)
神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、
罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、
ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。
わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。
明日の福音に登場するのは、洗礼者ヨハネです。年老いた祭司ザカリアとエリザベトの間に生まれたヨハネは、人々の前に現れるまで荒れ野で生活していました。預言者として主の前に遣わされたヨハネは、預言者イザヤのことば(イザヤ40.3参照)を引用して叫びます。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。
(沈黙)
聖書の世界の中で、「荒れ野、砂漠」は特別な意味を持っています。モーセに率いられたイスラエルの民は約束の地を目指して、40年間荒れ野を旅しました。苦しい歩みでしたが、神がともにおられるという事実をイスラエルの人々は体験しました。預言者エリヤはイスラエルの王アハズの后(きさき)、イゼベルから命を狙われ、40日間荒れ野をさまよい続けました。そしてホレブ山に到達し、静けさの中でささやく声を聞き、神と出会いました(列王記上19.3-18参照)。荒れ野には、町でにぎわう人々の喧噪も、日々のあわただしさもありません。何もなく、静けさが漂う荒れ野は、神との出会いの場なのです。日々あわただしい生活を過ごしていると、しなければならないこと、スケジュールに追われて、心のゆとりを見失いがちです。
しかし、それらを脇へ置いて、心の奥深くに意識を向けてみましょう。心の奥をたどっていくと、静かで何もないスペースがあることに気づくでしょう。荒れ野や砂漠のように、何もない、雑音も聞こえない場所です。そこはわたしの心の荒れ野です。洗礼者ヨハネはわたしの心の荒れ野に現れて、こう叫びます。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。ヨハネは救い主が来られることを人々に告げ知らせ、心の準備をするように呼びかけました。わたしはイエスをお迎えするために、どんな準備をすればよいでしょうか。どんな心でお迎えしようとしているでしょうか。沈黙のうちにふり返りましょう。
『カトリック聖歌集』No.103 「あわれみの神」①、②を歌いましょう。
先週から始まった待降節は一週間が過ぎ、明日は第2主日を迎えます。わたしは残りの日々をどのように過ごしたいでしょうか。祈りのうちに心に浮かんだことを、ノートや手帳に書いてみましょう。これは誰かに見せるとか、公に人と分かち合うというものでもありません。神様とわたしとの間のことであり、個人的にわたしの意向を神様にささげるものです。毎日の生活の中で、祈るとき、また一日の終わりにノートに書いた意向を読み返し、その日をどのように過ごすことができたかをふり返るヒントになさってみてください。
救い主を待ち望むわたしたちの思い、また待降節をどのように過ごしたいか、わたしたちの意向を父である神様にささげて、ごいっしょに祈りましょう。
聖なる父よ、あなたはわたしたちを愛し、摂理によって導いてくださいます。洗礼者ヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫びました。待降節の間、わたしたちが、あなたと人々への愛にますます生きることによって、御子イエスを迎えるために、心を準備することができますように。アーメン。
イスラエルの人々がバビロニア王国に支配されて自分たちの国を失ったのは、紀元前586年のことでした。そのときから人々は、外国の支配から解放してくださる救い主を待望していました。イエスの到来によってそれは実現しますが、民は実に約600年という時が経つのを待たなければなりませんでした。「待つ」ということは、現代のわたしたちにとって、簡単なことではなくなってしまいました。スピードが求められる時代、社会の中では、いかに早く目的を達成するかが問われるようになりました。しかし、人間の時間の枠と神様の時間は同じではありません。ペトロは第2の手紙の中で次のように言っています。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(2ペトロ3.8)。
「待つこと」は忍耐の要ることです。わたしたちも何か特別の恵みを求めて、祈りをささげることがあります。一週間、一ヵ月、一年……。祈り続けても、願ったとおりの恵みが与えられるとは限りません。そんなとき、わたしたちの心にはさまざまな思いがよぎります。「どうして、神様はわたしの願いを聞き入れてくださらないのだろう」。「わたしの求めている恵みは、神様のみ旨とは違うのだろうか」。「もう、あきらめて祈るのをやめようか」。こんなとき、わたしたちはあらゆることが自分の望むままに行われるのではないことに気づかされます。「待つこと」はわたしの持っている意向がどのようなものであるか、自分を中心にしたものなのか、または神様の望みを求めているのかを見分けるカギとなります。「待つこと」は、ちっぽけな人間の視点では分からない、すべてを知っておられる神様の計画に心を向け、信頼するように導いてくれます。こうして、「待つこと」はわたしたちを清めてくれます。わたしは神様から、何かを期待して待っているでしょうか。それとも、神様の方がわたしに何かを期待して、待っておられるのでしょうか。
(沈黙)
救い主を待ち望んでいたイスラエルの民の中で、最も熱心に祈っていたのはヨセフとマリアかもしれません。二人は、日常の生活を淡々と過ごしながらも、祈りのうちに救い主の誕生を待ち、心を準備したことでしょう。現代、わたしたちの住む社会では、町のきらびやかなイルミネーションがクリスマスの風物詩となっていますが、平和の君と呼ばれるイエスは立派な王宮ではなく、目立たない、貧しい大工の夫婦のもとに生まれることを望まれました。天使のお告げによって、救い主の誕生を知らされ、その子を育てる使命をいただいた二人はどんな気持ちだったでしょうか。
天使のことばを信じたヨセフとマリアは、わたしたちと歩みをともにしてくださるでしょう。待降節をよく過ごすために、特にマリアの取り次ぎを求めて祈りましょう。
『パウロ家族の祈り』p.274、「お告げの聖母に向かう祈り」を唱えましょう。
聖母マリア、いつの代の人も、あなたを幸いな方とたたえますように。
大天使ガブリエルのことばを信じたあなたのうちに告げられた
偉大なことが、すべて成就しました。
マリアよ、わたしはすべてをあげてあなたをたたえます。
あなたは、ご自分のうちに神の御子が受肉されるのを信じて、神の母となられました。
そのとき、人類史上最も幸いな日が訪れ、人類は、唯一の師、永遠の祭司、
あがないの犠牲(いけにえ)、全宇宙の王を持つようになりました。
信仰は神の賜物、すべての善の源です。
マリアよ、人を救い、聖化するゆるぎない信仰をわたしたちにも得させてください。
あなたが御子のことばを心にとめ、思いめぐらしておられたように、
わたしたちもみことばを黙想することができますように。
福音がすべての人に宣べ伝えられ、素直に受け入れられますように。
こうして、すべての人が、イエス・キリストにおいて神の子となりますように。
わたしたちが必要としている恵み、また日本をはじめ、世界で苦しんでいる人々のために、恵みを求めて祈りましょう。
主の祈り、アヴェ・マリアの祈り、栄唱
この祈りの時間にいただいた恵みを沈黙のうちに思いめぐらしましょう。
(沈黙)
御子を与えることによって、わたしたちを愛してくださった天の御父に感謝して、歌いましょう。
『カトリック聖歌集』No.111 「しずけき」①~③
祈りましょう。
父である神よ、御子キリストの誕生を待ち望むわたしたちを、いつくしみをもってかえりみてください。祈りと愛の業によって、心を準備し、あなたの子を喜びのうちに迎えることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
これで今晩の「アレオパゴスの祈り」を終わります。恵み深い降誕祭、そして新年をお迎えください。
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