聖パウロの自己紹介
「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。」(使徒言行録)とパウロは言います。タルソスは、現在のトルコの中央南部イチェル州の町で、ローマ時代は州都として、東西および南北の交流の要所として重用視されていました。
さらにパウロはこうつけ加えています。
「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピ 3.5-6)
パウロの両親の名前は分かりませんが、彼の言葉から、その家族はイスラエルの民に属し、ベニヤミン族出身であったことが分かります。ヒエロニムスによれば、パウロの両親は、ガリラヤのギシャラ出身だといいます。使徒言行録(23.16)に、「パウロの姉妹の子」と書かれており、彼には姉妹がいました。
パウロは、割礼の日に、ベニヤミン族の最も著名な人物の名をとって、「サウロ」と名づけられます。「サウロ」はヘブライ名で、これをギリシア名では「パウロス」と言われます。
「サウロ」という名前は、使徒言行録の中で15回使われており、彼自身が、自分を「パウロス」と言っていることからすると、おそらく生まれたときから、ギリシア名とヘブライ名の両方をもっていたと思われます。
パウロが生まれた日時は分かりませんが、ステファノ殉教のとき(AD30~35年ごろ)には「サウロという若者」(使徒言行録7.58)と言われて、フィレモンに手紙を書いたとき(AD53~56年ごろ)、自らを「年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロ」(フィレモン9)と言っています。このことから考えると、パウロはイエスより10歳くらい若かく、西暦の初頭に生まれたのではないでしょうか。
パウロは、生まれながらにローマの市民権をもっていました。この特権は、みんなが欲しがるものでしたので、多くの者は、大金を払って買おうとしていました。
パウロもまたこれを、幾度か利用しています。(使徒言行録 16.37、22.25-29参照)
「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピ 3.5-6)というパウロの言葉でも分かるように、家族はファリサイ派に属する人々で、モーセの律法を厳しく守っていました。
パウロは非常に早くから聖書を学び、エルサレムにおいて「ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け」(使徒言行録 22.3)ました。
さらにパウロは、その熱心さから、「わたしはこの道(キリスト教)を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒言行録 22.4)。
そのパウロがなぜ、使徒と呼ばれるようになったかは、「パウロの回心」といわれる、復活されたイエスとの出会いによるのです。